Hip-HopHistoryヒップホップ全史
1973年、ブロンクスの小さなパーティーから始まった文化が、半世紀かけて世界の音楽の真ん中に座った。Run-DMC、Public Enemy、Nas、2Pac、The Notorious B.I.G.——そしてドレイク、ミーゴス、ケンドリック・ラマー。年代ごとの名盤、街ごとの音、レーベル、プロデューサー、ビーフ、サンプリング、そして日本まで。「ブームバップからトラップへ」の流れを、446人のアーティスト、332本のYouTube、329枚の写真で掘る、岩手のクラブ好きのための長い読み物。
ヒップホップは、音楽である前に「街」だった



ヒップホップを「ラップという音楽ジャンル」のことだと思っている人は多い。間違いではないが、起源をたどると少し違う。ヒップホップはもともと、ひとつの街角で同時に育った四つの表現——MC(ラップ)、DJ、ブレイキング(ダンス)、グラフィティ(壁の絵)——をまとめて呼ぶ「文化」の名前だった。声と、ターンテーブルと、身体と、スプレー缶。楽器を買う余裕がなくても、いま手元にあるものだけで始められる表現ばかりだ。
舞台は1970年代のニューヨーク、ブロンクス。高速道路の建設で街は引き裂かれ、工場は去り、空き家への放火が相次いだ。「燃えるブロンクス」として全米に知られたこの街で、若者たちは公園の街灯から電気を引き込んでまでレコードを鳴らし、パーティーを開いたという。何もない場所から、あるものだけで楽しみを作る。その発想こそが、半世紀にわたるヒップホップの背骨になった。
他人のレコードを切り貼りするサンプリングも、手売りのミックステープも、寝室で録った曲をSoundCloudに上げた十代がスターになる流れも、根っこは同じ場所にある。いまのトラップの重い低音も、90年代のブームバップの埃っぽいドラムも、たどれば同じ街角から枝分かれしたものだ。
このページは、その50年を年代ごとに辿る読み物だ。縦軸は1970年代から2020年代まで。そこにもう一本、大きな流れを通した。サンプルとブレイクビーツで組む「ブームバップ」から、ドラムマシンの重低音とハイハットで組む「トラップ」へ。古い名盤を並べるだけの回顧ではなく、「なぜ今の音はこうなったのか」がつながって見えるように書いた。各章に写真とYouTubeを置いたので、読みながら実際の音を確かめてほしい。
- 19738月11日、ブロンクスのセジウィック・アベニュー1520番地でDJクール・ハークがパーティー。誕生の日として語られる。
- 1979シュガーヒル・ギャング「Rapper's Delight」。ラップが初めて全米ポップ・チャートのトップ40に入る。
- 1982Grandmaster Flash「The Message」、Afrika Bambaataa「Planet Rock」。社会を語るラップと、TR-808の電子ビート。
- 1986Run-DMC「Walk This Way」、Beastie Boys『Licensed to Ill』。ラップが白人のお茶の間にも届く。
- 1988Public Enemy『It Takes a Nation…』、N.W.A『Straight Outta Compton』。黄金期の幕開け。
- 1992Dr. Dre『The Chronic』。西海岸のGファンクが全米を席巻。
- 1993-94Wu-Tang、Nas『Illmatic』、Biggie『Ready to Die』。東海岸のブームバップ最盛期。
- 1996-972Pacが9月13日に、The Notorious B.I.G.が翌年3月9日に銃撃で死去。
- 2003T.I.『Trap Muzik』。アトランタのトラップが名前を持つ。
- 2004Kanye West『The College Dropout』。プロデューサー出身のスターが誕生。
- 2008Lil Wayne『Tha Carter III』が初週100万枚超。Kanye『808s & Heartbreak』が歌うラップの扉を開く。
- 2013Migos「Versace」。三連のフローとトラップが世界中に広がる。
- 2017米国でヒップホップ/R&Bが最も聴かれるジャンルに(ニールセン)。Kendrick『DAMN.』は翌年ピューリッツァー賞音楽部門を受賞。
- 2019Lil Nas X「Old Town Road」が全米1位に19週連続(当時の最長記録)。
- 2023ヒップホップ誕生50周年。グラミー賞でも大規模なトリビュート。
- 2024-25Kendrick vs Drake。「Not Like Us」がグラミー賞の主要2部門を制す。
1973年8月11日、セジウィック・アベニュー
ブレイクを引き延ばす。マイクで煽る。壁に名前を描く。バラバラだった遊びが、ひとつの文化の名前を持つまで。



歴史の起点としてよく挙げられるのが、1973年8月11日だ。ブロンクス、セジウィック・アベニュー1520番地のアパートにある集会室で、ジャマイカ出身の青年クライヴ・キャンベル——のちのDJクール・ハーク——が、妹シンディが企画した新学期用の資金づくりパーティーでDJを務めた。入場料は女性25セント、男性50セント。その夜は後年、「ヒップホップが生まれた日」として語り継がれることになる。
ハークの発明は、「ブレイク」を引き延ばしたことだった。ファンクやソウルのレコードには、歌やメロディが抜けてドラムとベースだけになる短い部分がある。踊っている客が最高潮になるのは、いつもそこだ。同じレコードを2枚用意したハークは、片方のブレイクが終わる瞬間にもう片方の頭を出し、数秒の山場を延々と続けた。「メリーゴーラウンド」と呼ばれたこのやり方が、ヒップホップのビートの原型になる。ブレイクで踊る少年少女は「ビー・ボーイ/ビー・ガール」と呼ばれ、これがブレイキングの始まりだ。
ハークはもうひとつ、故郷の文化を持ち込んでいた。巨大なスピーカーを積んだサウンドシステムと、マイクで客を煽る「トースティング」。ラップの祖先のひとつは、レゲエのDJトークでもある。盛岡のレゲエ・シーンを知る人には、この話は少し身近に聞こえるかもしれない(→ マガジン「サウンドシステムという文化」)。

技術を一段押し上げたのが、グランドマスター・フラッシュだ。電気の技術を学んでいた彼は、レコードのラベルに印をつけて狙った箇所を正確に頭出しする方法を編み出し、2枚のレコードをリズムの中で自在に行き来する「クイック・ミックス」を完成させた。のちに彼の弟子グランド・ウィザード・セオドアが、レコードを手で前後に擦る音を偶然見つけたとされる。スクラッチの誕生である。
一方、ギャング抗争の渦中にいたアフリカ・バンバータは、暴力の代わりに音楽で若者をまとめようと、団体自身が創設日とする1973年に「ユニバーサル・ズールー・ネーション」を立ち上げた。パーティーを争いの代わりの場にする——ヒップホップの「ピース・アンド・ユニティ」の思想はここに根を持つ。
※ バンバータには、のちに性的虐待の告発が相次ぎ、2016年にズールー・ネーションから除名された。本人は否定したまま、2026年4月に68歳で亡くなっている。文化への功績と告発の両方が、事実として残っている人物だ。
ここまで、「ラップ」はほとんど出てこない。初期のMCの仕事は、DJの横でマイクを握り、「みんな踊れ」と煽り、自己紹介を韻に乗せることだった。それが次第に独立して、独自の歌詞とフローを持ちはじめる。「ヒップホップ」という言葉そのものも、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブの一員、キース・カウボーイがリズムを口ずさんだ「ヒップ、ホップ」が語源のひとつだとされている。
そして1979年。ニュージャージーの小さなレーベル「シュガーヒル・レコード」の創設者シルヴィア・ロビンソンが、3人の若者を集めて録音させたのが、シュガーヒル・ギャング「Rapper's Delight」だった。ディスコの名曲、シックの「Good Times」のベースラインをバンドに生演奏で再現させ、その上にラップを乗せる。ラジオ向けに3分台が当たり前だった時代に、12インチ盤は約15分という破格の長さだったが、それでも全米36位のヒットになった。ブロンクスのパーティーで育った表現が、初めて「売れる商品」として世界に出ていった瞬間だ。
ただし、この曲はブロンクスの現場にいたラッパーたちからすれば「よそ者が作った成功」でもあった。現場から出てくる本物のヒップホップが全国に届くのは、もう少し先、1980年代になってからのことになる。
なぜ、ブロンクスだったのか
ヒップホップがほかの街ではなくブロンクスで生まれた理由は、街の傷と切り離せない。1948年から1972年にかけて作られた高速道路(クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイ)は、多くの住民を立ち退かせ、街を分断した。1970年代には、空き家への放火による火災が相次ぎ、1977年7月13日の大停電では略奪も起きた。財政危機に陥ったニューヨーク市では、学校の音楽教育の予算も削られたと言われる。
それでも、街には人がいた。黒人、プエルトリコ系、ジャマイカなどカリブ海からの移民。違うルーツの若者が同じ集合住宅や公園で暮らし、それぞれの音楽——ファンク、ソウル、ラテン、レゲエ——を持ち寄った。楽器が買えなくても、ターンテーブルとスピーカーさえあれば、近所を一晩で踊らせられる。貧しさが、ヒップホップの発明を必要にしたのだ。ギャングの縄張り争いが日常だった街で、DJが「喧嘩の代わりに踊ろう」とパーティーを開いたことも、この文化が祝祭として育つ土台になった。














ラップが「流行」から「表現」になった10年
社会を語る。ロックと握手する。FBIに目をつけられる。ターンテーブルの前にサンプラーが現れ、ヒップホップは一気に深くなった。



1980年代の前半、ヒップホップはまだ「新しいパーティー・ミュージック」として受け取られていた。カーティス・ブロウの「The Breaks」(1980)がラップ作品として初めてゴールド認定を受け、ブロンクスの外にもレコードが流通しはじめる。流れを変えたのが、1982年のグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブ「The Message」だった。崩れかけた建物、仕事のない日常、いつ爆発してもおかしくない怒り。パーティーの煽りではなく、街の現実そのものを歌詞にしたラップが、はじめて大きな注目を集めた。
同じ1982年、アフリカ・バンバータが発表した「Planet Rock」は、ドイツのクラフトワークの電子音を下敷きに、ローランドのドラムマシン「TR-808」を鳴らした。808は発売当時は商業的に振るわなかった機種だが、中古が安く出回ったことでヒップホップの現場に流れ込む。この機械の太いキックと低音が、40年後のトラップまで続く、ヒップホップの低域の骨格になる。(この話は後半の「ブームバップ→トラップ」の章で詳しく。)
ロックと握手したRun-DMC
80年代半ばに顔を変えたのが、クイーンズ出身の3人組Run-DMCだ。派手な衣装が当たり前だった時代に、黒のレザージャケットとアディダス、無駄を削ったドラムマシンの音、怒鳴るような二人のラップ。路上の服装をそのままステージに持ち込んだ姿は、ストリートの美学を決定づけた。1986年にエアロスミスと共演した「Walk This Way」は全米4位の大ヒットになり、MTVでラップが流れるきっかけになる。「My Adidas」(1986)は、アーティストとブランドの協業の先駆けとされる。
その背後にいたのが、ランの兄でマネージャーのラッセル・シモンズと、プロデューサーのリック・ルービンだ。二人は1984年にレーベルデフ・ジャムを立ち上げた。LL・クール・Jが最初のスターになり、ルービンがプロデュースしたビースティ・ボーイズの『Licensed to Ill』(1986)は、ラップのアルバムとして初めて全米アルバムチャート1位になった。
「黄金期」の幕開け——ラキムとKRS-One
1987年、エリック・B&ラキムの『Paid in Full』が出る。それまでのラップは、声を張り上げて韻を踏むのが主流だった。ところがラキムは、低く落ち着いた声で、行をまたいで韻を重ね、言葉をビートの上に滑らせるように乗せた。ラップが「リズムに乗せた喋り」から、「高度な言語芸術」に変わった瞬間だ。いまのラッパーのほとんどが、彼のフロウの影響下にいると言っても大げさではない。
同じ年、サウスブロンクスから登場したブギ・ダウン・プロダクションズの『Criminal Minded』は、ラップを街のドキュメントに変えた。中心にいたKRS-Oneは、後に「教師(The Teacher)」と呼ばれる存在になる。ライバルのクイーンズ勢との応酬は、「ブリッジ戦争」と呼ばれる有名な対立になった。ヒップホップの「ビーフ(口喧嘩)」は、この頃から競技の一部だった。
怒りを音にしたPublic EnemyとN.W.A
1988年は、ヒップホップ史に残る名盤が立て続けに生まれた年だ。ロングアイランドのパブリック・エナミーは『It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back』で、チャックDの太い声と、フレイヴァー・フレイヴの道化役、そしてハンク・ショックリー率いるボム・スクワッドのサンプルを幾重にも重ねた轟音のようなトラックを叩きつけた。サイレン、スクラッチ、演説、ファンクのドラム。音を詰め込んだ音圧は、のちのヒップホップのプロダクションを根底から変える。1989年にスパイク・リー監督の映画『Do the Right Thing』のために作った「Fight the Power」は、いまも抵抗と黒人の誇りの讃歌として歌い継がれている。
その同じ年、西海岸のコンプトンから登場したのがN.W.Aの『Straight Outta Compton』だ。アイス・キューブ、ドクター・ドレー、イージー・E。街で日常的に起きる警察の暴力と暴力のある暮らしを、そのままの言葉で描いた「ギャングスタ・ラップ」は、大論争を呼んだ。収録曲「Fuck tha Police」に対して、FBIが所属レーベルに警告の手紙を送るほどだった。それでも、いやそれだからこそ、アルバムは全米で爆発的に売れる。ヒップホップが「危険な音楽」として大人たちに恐れられ、同時に若者から熱狂的に支持される構図は、このとき固まった。
サンプラーが変えた作り方
80年代後半のもうひとつの革命が、サンプラーの普及だ。E-mu SP-1200(1987)やAkai MPC60(1988)の登場で、DJはレコードの一部を機械に取り込み、並べ替えて叩けるようになった。古いレコードの一音一音がそのまま「楽器」になる。90年代のブームバップへ、一直線の道が敷かれた。
同じ時期、ネイティヴ・タンの面々——デ・ラ・ソウルの『3 Feet High and Rising』(1989)、ジャングル・ブラザーズ、ア・トライブ・コールド・クエストら——は、ギャングスタとは別の道を見せた。ユーモア、ジャズ、ヒッピー的な明るさ。ヒップホップには、怒りだけではない幅があることを、彼らはあらためて証明した。ストーリーテラーのスリック・リック「Children's Story」(1988)も、ラップを一本の短編に変えた。
映画とMTVがラップを全国に運んだ
80年代のヒップホップを広めたのは、レコードだけではない。『Wild Style』と『Style Wars』(ともに1983)は、ブロンクスの現場の空気を映画とドキュメンタリーに残し、『Beat Street』(1984)や『Krush Groove』(1985)はスクリーンを通じて世界中の若者にブレイキングとラップを見せた。日本の若者が最初に「ヒップホップ」を知った入口も、こうした映画とダンスのブームだったという人は多い。
テレビでは、MTVが「Walk This Way」を機にラップを流しはじめ、1988年8月6日には専門番組『Yo! MTV Raps』が始まった。初期の司会を務めたのは、あのファブ・ファイブ・フレディだ。雑誌『The Source』(1988年創刊)も、レコード会社が選ばない側の視点で作品を採点した。ヒップホップが自分たちの言葉で語られる「媒体」を持ちはじめたのが、この10年だった。



































東と西、そして南。ヒップホップが天下を取った10年
NasのIllmatic、ビギーのReady to Die、2Pacの『All Eyez on Me』、Wu-Tangの36の部屋。古き良きヒップホップと言えば、たいていここを指す。



90年代のヒップホップを一言で語るのは難しい。ジャズを刻むニューヨーク、シンセの口笛が鳴るロサンゼルス、ベースが地面を這うアトランタやヒューストン。地域ごとに違う音が一斉に花開き、それぞれがヒットチャートを揺らした。「ヒップホップ黄金時代」と呼ばれるこの10年を、四つの流れに分けて見ていこう。
① ニューヨーク——サンプルと言葉の職人たち
90年代初頭、ニューヨークのヒップホップは「職人の時代」に入る。ア・トライブ・コールド・クエストは『The Low End Theory』(1991)で、ジャズのウッドベースをそのままビートの中心に据えた。ギャング・スターのDJプレミアは、レコードを小さく刻んで別の曲に組み替える、鋭いドラムとピアノのループで「ニューヨークの音」を定義する。ピート・ロック&C.L.スムースの「T.R.O.Y.」(1992)は、ソウルのホーンを温かく鳴らした名曲として、今も語り継がれる。
この頃、プロデューサーの作法にも大きな変化があった。1991年、ビズ・マーキーが無断でサンプルを使った曲をめぐる訴訟で、判事は「汝、盗むなかれ」と厳しい言葉を残した。以降、サンプルの使用には権利者の許可が必須になる。許可の費用が重くのしかかったため、プロデューサーは使うネタの数を絞り、元ネタが分からないほど細かく刻んで加工する工夫も広がった。皮肉なことに、この制約が職人技を磨く一因にもなった。
② ロサンゼルス——ドクター・ドレーとGファンク
1992年、N.W.Aを離れたドクター・ドレーが自身のレーベル「デス・ロウ」から発表した『The Chronic』は、西海岸の音を決定づけた。パーラメント/ファンカデリックのファンクを下敷きに、ゆっくり揺れる低音、口笛のような高いシンセ、女性コーラス——Gファンクだ。ニューヨークの硬いサンプルとは対照的に、カリフォルニアの太陽の下で聴くための音だった。そこに登場した新人がスヌープ・ドギー・ドッグで、気だるく滑るフロウで一躍時代の顔になる。デビュー作『Doggystyle』(1993)は、新人の作品としては異例の全米初登場1位だった。
③ ニューヨークの逆襲——Wu-Tang、Nas、Biggie
Gファンクの勢いに押されていたニューヨークが反撃に出る。口火を切ったのが、スタテン島の9人組ウータン・クランの『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』(1993)だ。カンフー映画のセリフを散りばめ、RZAが荒く歪ませたピアノと打ち込みのビート。ざらついた質感のまま、九人のMCが入れ代わり立ち代わりマイクを奪い合う。「C.R.E.A.M.」は、金が全てを回す世界を描いた象徴的な一曲だ。
翌1994年、さらに決定的な作品が二つ出る。一つはナズ(Nas)の『Illmatic』。クイーンズブリッジの団地で育った20歳の青年が、ほとんど映画のカメラワークのような言葉で街の風景を描いた。収録は10曲、約40分。DJプレミア、ピート・ロック、Q-ティップ、ラージ・プロフェッサーといった当時の最高峰の職人が一枚のアルバムに集まった。ラップ専門誌『ザ・ソース』が最高評価の5マイクをつけ、いまも「ヒップホップの最高傑作」の議論に必ず名前が挙がる。
もう一つがノトーリアス・B.I.G.(ビギー)の『Ready to Die』だ。ブルックリンのベッドフォード・スタイベサントで育った巨漢のラッパーは、のんびりとした低音の声で、犯罪の世界と成り上がりの喜びを、時にユーモアを交えて語った。「Juicy」の「かつて貧しかった自分がここまで来た」という物語は、ヒップホップの定番ストーリーの原型になった。レーベルのバッド・ボーイを率いたパフ・ダディ(ショーン・コムズ)は、ヒップホップを「きらびやかな成功の音楽」としてポップ・チャートに持ち込んでいく。続くモブ・ディープの『The Infamous』(1995)は、冷たく不穏なループで、ニューヨークの暗部を描いた。1996年にはジェイ・Zが自主レーベルから『Reasonable Doubt』でデビューする。
④ 南部——「南部には言いたいことがある」
1995年、ザ・ソース・アワードの会場。アウトキャストのアンドレ3000は、東西の大物の前でブーイングを浴びながら、「南部にも言いたいことがある」とスピーチした。当時のヒップホップは東と西で語られるのが常識だったが、アトランタのアウトキャスト、テキサスのUGKとゲットー・ボーイズ、メンフィスのスリー・6・マフィア、ニューオーリンズのマスターPやキャッシュ・マネーが、独自の音と言葉でシーンを塗り替えていく。ヒューストンではDJスクリューがレコードを遅く回してぼんやり引き延ばす「チョップド&スクリュード」を生み出し、これがのちのトラップ以降の「ゆっくり浮遊する声」の源流のひとつになる。
南部の音は、低音の重いドラムマシン(TR-808)と、クラブで体を揺らすためのビートが軸だった。ニューヨーク的な「言葉の技巧」と違って、まず身体に効く低音。この発想が、2000年代、そして2010年代のヒップホップを完全に塗り替えることになる。
悲劇——2Pacとビギー
90年代のヒップホップを語るとき、避けて通れないのが2パック(2Pac)の存在だ。ニューヨークのハーレムに生まれ、元ブラック・パンサー党員の母のもとで育った彼は、演劇学校で詩と演技を学び、ボルチモアからカリフォルニアへ移った。社会への怒りと母への愛、街の暴力と優しさを同じ声で歌えるラッパーは、ほかにいなかった。1995年の『Me Against the World』は、本人が収監中に全米アルバム1位を獲得。母に捧げた「Dear Mama」は、ギャングスタ・ラップの枠を超えた名曲として世界中で愛される。同年デス・ロウと契約し、「California Love」と、翌1996年の2枚組『All Eyez on Me』で西海岸の王座に就いた。
そして1996年9月7日、ラスベガスで銃撃を受け、9月13日、25歳で亡くなった。翌1997年3月9日には、ロサンゼルスでビギーも銃撃され、24歳で世を去った。死の約2週間後に発売された二枚組『Life After Death』は、あまりに皮肉なタイトルだった。「東と西の抗争が二人の命を奪った」という物語は広く語られているが、当事者の多くはそれを望んでいなかったとも言われている。2パックの事件では、2023年に容疑者が起訴された。ふたりの死は、ヒップホップが「危険な音楽」であることを、本人たち自身が突きつけられた事件でもあった。
90年代後半——ポップ化と、女性たちの台頭
90年代後半、ヒップホップは完全にポップ・チャートの中心に座った。パフ・ダディの煌びやかな曲、ジェイ・Zの『Vol. 2… Hard Knock Life』(1998)の大ヒット。そしてローリン・ヒルの『The Miseducation of Lauryn Hill』(1998)は、ラップとソウルを一つの声で歌い、翌年のグラミー賞で5部門を受賞した。ミッシー・エリオットとティンバランドは、まるで未来から届いたようなリズムを鳴らした。女性ラッパーが「例外」ではなくなった10年でもある。
ラジオとミックステープ、そして雑誌が作ったシーン
90年代の名盤は、ラジオの深夜枠から生まれたとも言える。ニューヨークの大学ラジオWKCRで1990年から続いた番組「Stretch and Bobbito」は、無名だった頃のNasやWu-Tang、Biggieらのフリースタイルを流し、シーンの登竜門になった。Hot 97のファンクマスター・フレックスのようなDJは、新曲を最初にかける役割そのものでスターになった。
雑誌も力を持った。『The Source』に加えて、『Vibe』(1993)、『XXL』(1997)が創刊され、アルバムの評価が文化の言葉になる。1991年5月、米ビルボードが売上の集計方法を「サウンドスキャン」に切り替えると、ヒップホップやカントリーが、思われていた以上に売れていることが数字で明らかになった。「売れているのは、実は街で聴かれている音楽だった」という事実が、レコード会社の姿勢を変えていく。
















































































CDが売れ、ミックステープが走り、南部が主役になった
エミネム、50セント、カニエ、リル・ウェイン。ヒップホップが名実ともにポップスの王様になり、そして街の音が静かに「トラップ」へ傾きはじめる。



2000年代のヒップホップは、とにかく売れた。CDが最後の黄金期を迎え、MTVの『TRL』やラジオのヘビーローテーションをラッパーが占領する。誰もが知るスターが続々と生まれた10年だが、同時に水面下では、次の時代の種がいくつも芽を出していた。
エミネム、50セント——ドレーの最後の発明
デトロイトの白人ラッパーエミネムは、ドクター・ドレーの後ろ盾で世に出た。『The Slim Shady LP』(1999)の毒と笑い、『The Marshall Mathers LP』(2000)の壮絶な告白は、発売当時の記録的な売れ行きを見せる。自身の半自伝的な映画『8 Mile』の主題歌「Lose Yourself」は、ラップ曲として初めてアカデミー賞の歌曲賞を受賞した。
続いてドレーとエミネムが送り出したのが、9発の銃弾を浴びて生き延びたという逸話を持つ50セントだ。『Get Rich or Die Tryin'』(2003)と「In Da Club」は、街の暴力と成り上がりを、キャッチーなフックと重いビートで包み込み、全米を制した。彼のG-Unitを含め、「ストリートの危うさをそのままポップスとして売る」ビジネスモデルが完成した時代でもある。
カニエ・ウェスト——プロデューサーが主役になった日
2001年、ジェイ・Zの『The Blueprint』で、スタジオにはもう一人の天才が座っていた。シカゴ出身のプロデューサーカニエ・ウェストだ。ソウルのレコードを高速に早回しして歌声を甲高くする「チップマンク・ソウル」で、ブームバップの職人文化を温かいサウンドに塗り替えた彼は、2004年に『The College Dropout』でラッパーとしてもデビューする。事故で顎を固定したまま録音した「Through the Wire」や、神への祈りを真正面から歌った「Jesus Walks」。ギャングスタ一辺倒だった当時のヒップホップに、「弱さ」や「迷い」を持ち込んだ点がカニエの革命だった。
そして2008年の『808s & Heartbreak』。ドラムマシンの808とオートチューンを軸に、失恋と孤独を歌い上げたこの作品は、発売当初こそ賛否が割れたが、のちのドレイクやトラヴィス・スコットといった「歌うラップ」「感情を溶かすラップ」の世代の基準点になった。
南部の夜明け——クランク、スナップ、そしてトラップ
2000年代は、南部が主役になった時代でもある。アトランタのリル・ジョン&ザ・イーストサイド・ボーイズは、叫ぶようなコールと跳ねるビートの「クランク」で、クラブを熱狂させた(「Get Low」2003)。ヒューストンでは、マイク・ジョーンズやポール・ウォールがチョップド&スクリュードの流れを全国区に押し上げる。アトランタのD4Lの「Laffy Taffy」(2005)は、指を鳴らす乾いたビートの「スナップ」が全米1位にまで登りつめた。
そして、のちに世界を覆う音の名前が生まれる。T.I.の『Trap Muzik』(2003)だ。「トラップ」とは、もともと麻薬を売買する場所を指すアトランタの隠語。その暮らしを描いたラップとして、T.I.、ヤング・ジージー(『Let's Get It: Thug Motivation 101』2005)、グッチ・メインらが次々と作品を出す。重い808、暗いシンセ、短く刻むハイハット。この時期のアトランタが、いまのトラップの設計図を描いたと言っていい。
リル・ウェインとミックステープ文化
ニューオーリンズ出身のリル・ウェインは、2005年から2008年にかけて、驚異的なペースでミックステープを出し続けた。他人のビートの上に勝手にラップを乗せて無料で配る、という違法すれすれのやり方だったが、ここで彼は誰よりも多作で、誰よりも奇妙な言葉を使うラッパーになった。『Tha Carter III』(2008)は初週に100万枚以上を売り上げ、CD不況の中でも例外的な数字を叩き出す。ミックステープ、のちのSoundCloud、さらにはストリーミングへと続く「作品を出し続け、聴いてもらう」文化の先駆けだった。
アンダーグラウンドの宝物——DOOMとJ Dilla
売れ線とは別のところで、2000年代はブームバップの職人たちが最高の仕事を残した時代でもある。仮面のラッパーMFドゥームとプロデューサー、マッドリブが組んだ『Madvillainy』(2004)は、寝室で作ったようなざらついたビートに、ユーモアと奇想が詰まった一枚としていまも崇拝されている。
そしてJ・ディラ。デトロイトのプロデューサーは、ア・トライブ・コールド・クエストやコモン、エリカ・バドゥらの名曲を手がけ、「機械的に揃えない」少しよれたドラムのスウィングで、ブームバップの新しい形を作った。2006年2月7日、病床で作り上げたインストの傑作『Donuts』が出た3日後、彼は32歳で亡くなった。いま世界中で流れている「ローファイ・ヒップホップ」の大きな源流のひとつが、ここにある。
「ヒップホップは死んだ」
2006年、ナズは『Hip Hop Is Dead』というアルバムを出した。ニューヨークの黄金期を知る側から見れば、南部と商業主義に押されて「言葉の文化」が消えていくように見えたのだ。けれど、YouTubeやMySpaceからヒット(ソウルジャ・ボーイ「Crank That」2007)が生まれ、ネットが主役になっていく中で、ヒップホップは死んだのではなく、場所を変えただけだった。
ネットが流通を変えた
2000年代は、音楽の届け方が根本から変わった10年でもある。2003年に始まったiTunes Storeは「1曲ずつ買う」習慣を広め、2005年創設のYouTubeとMySpaceは、レーベルを通さずに曲と顔を知らせる場所になった。ミックステープの配布サイトDatPiffもこの年に生まれ、リル・ウェインやグッチ・メインの無料作品がネットで拡散した。ソウルジャ・ボーイの「Crank That」が、10代の自作動画と振り付けから全米1位に届いた2007年は、ネット発のスターという新しい道筋の始まりだった。
一方で、CDの売上は急速に落ちていった。アルバムを丸ごと売る時代の終わりが見えるなかで、ヒップホップは「ミックステープで量を出し、ライブとブランドで稼ぐ」モデルを先に作った。この発想は、次のストリーミング時代にそのまま通用することになる。












































ストリーミングが門を開け、ヒップホップは米国で一番聴かれる音楽になった
ドレイク、ケンドリック、ミーゴス、フューチャー、トラヴィス・スコット、リル・ウージー・ヴァート。聴き方が変わると、音と言葉も変わった。



2010年代の最大の変化は、音楽の「聴き方」だった。Spotify、Apple Music、YouTube、SoundCloud。CDを買う代わりに、誰もが月額で何億曲にもアクセスできるようになると、アルバム全体を通して聴かせるより、1曲目のイントロで引っ張る強さや、再生リストに入れたくなるムードが大事になった。2017年、米国のニールセン調べで、ヒップホップ/R&Bはロックを抜いて最も聴かれるジャンルになる。街角の遊びから始まった文化が、世界のメインストリームになった瞬間だ。
ドレイクとケンドリック——二人の頂点
トロント出身のドレイクは、元子役という異色の経歴で、2009年のミックステープ『So Far Gone』から頭角を現す。ラップと歌のあいだを自然に行き来し、弱さや不安をさらけ出すスタイルは、カニエが開いた扉を一気に大衆化させた。『Take Care』(2011)、「Started from the Bottom」(2013)、「Hotline Bling」(2015)、「One Dance」(2016)。ストリーミングの時代に最も多く再生されるアーティストの一人として、チャートの常連であり続けた。
対照的に、コンプトンのケンドリック・ラマーは、一枚のアルバムを一本の映画のように作るラッパーだった。『good kid, m.A.A.d city』(2012)で自分の少年時代を描き、『To Pimp a Butterfly』(2015)ではジャズやファンク、スポークンワードを総動員して黒人の歴史と自己嫌悪に向き合った。収録曲「Alright」は、警察の暴力に抗議する運動の中で人々が口ずさむ讃歌になる。そして『DAMN.』(2017)は、翌年、クラシックでもジャズでもない作品として初めてピューリッツァー賞の音楽部門に選ばれた。ラップが、アメリカで最も権威ある文化賞のひとつに届いた。
ほかにも、独立したまま無料配布のミックステープで世界を揺らし、2016年の『Coloring Book』でストリーミング限定の作品として初めてグラミー賞(最優秀ラップ・アルバム)を獲得したチャンス・ザ・ラッパー。そして、女性ラッパーとして「Bodak Yellow」(2017)でソロ曲の全米1位を獲得し、ローリン・ヒル以来となる快挙を成し遂げたカーディ・B。この10年で、スターになる道筋は何通りにも広がった。
トラップが世界を覆う
2000年代にアトランタで育ったトラップが、この10年で世界の標準になる。きっかけの一つが、プロデューサーのレックス・ルガーだ。ワカ・フロッカ・フレイムの「Hard in da Paint」や、リック・ロスの「B.M.F.」で彼が鳴らした、オーケストラのような派手なシンセと爆撃のような808は、「トラップのサウンド」を一気に分かりやすく定義した。
そして2013年、アトランタ郊外の3人組ミーゴスの「Versace」がドレイクのリミックスで広がる。メロディのように聞こえる三連符のフロウ(通称「ミーゴス・フロウ」)、合いの手のようなアドリブ、跳ねるハイハット。2017年には「Bad and Boujee」が全米シングル1位に、アルバム『Culture』も全米1位に輝いた。彼らの成功は、ラップの技術の物差しを、「韻の巧みさ」から「ノリと中毒性」へと広げた。(メンバーのTakeoffは2022年に亡くなった。)
フューチャーは『DS2』(2015)の頃から、オートチューンで歪ませた声に、孤独と薬物依存を重ねて歌い、トラップの感情の幅を押し広げた。「Mask Off」(2017)のフルートのループは、現代のヒップホップを象徴する旋律になった。ヤング・サグは、自由自在に声の高さを動かし、言葉の意味より声の質感でフックを作る新しいやり方を見せた。トラヴィス・スコットの『Astroworld』(2018)は、一曲のなかで何度もビートが切り替わる遊園地のような構成で、アルバム全体をエンターテインメントに変えた。「Sicko Mode」(2018)は、その到達点の一つだ。
ジャンルの境界はどんどん消えていく。リル・ウージー・ヴァートはロックやエモの感覚をトラップに持ち込み(「XO Tour Llif3」2017)、ポスト・マローンは歌とラップとロックを一人で往復し、リル・ナズ・Xの「Old Town Road」(2019)はカントリーとトラップを混ぜて、全米1位に19週連続でとどまった(当時の最長記録)。バトンルージュのNBA ヤングボーイは、驚くほどの多作ぶりと、感情を剥き出しにしたメロディアスなストリート・ラップで、熱狂的な支持を集めた。
この10年は、早すぎる死も多かった。XXXテンタシオン(2018年、20歳)、マック・ミラー(2018年、26歳)、ジュース・ワールド(2019年、21歳)。SoundCloudから突然スターになった若い才能が、重圧や依存と向き合う場所は、まだ整っていなかった。
「マンブル・ラップ」論争の読み方
トラップが主流になると、「歌詞が聞き取れない」「ただのノリだけ」という批判が先輩世代から起こった。ナズの『Illmatic』世代からすれば無理もない。ただ、トラップは歌詞の巧さ「だけ」で成り立つ音楽ではない。声のトーン、アドリブ、メロディ、ビートとの一体感——声そのものを楽器として使う文化だと考えれば、見え方は変わる。ここでも「何もないところから、あるものだけで作る」の精神は、ちゃんと生きている。
一方、シカゴではチーフ・キーフの「I Don't Like」(2012)が暗く攻撃的な「ドリル」を世界に知らしめ、のちにロンドンやブルックリンへ広がった。ブームバップの伝統も途切れていない。ニューヨークのジョーイ・バッドアスや、バッファローのグリゼルダ一派は、90年代のざらついた音をそのまま現代に持ち込んだ。
SoundCloudとバイラル、新人の登竜門
2010年代の新人は、レーベルの審査より先に、SoundCloudの再生数で選ばれた。2007年に始まったこのサービスは、寝室で録った曲を誰でも公開できる場となり、2015年前後から「SoundCloudラップ」と呼ばれる勢いのあるシーンを育てた。雑誌『XXL』が毎年選ぶ新人特集「Freshman Class」(2007年〜)は、その年の顔ぶれを知る一種の通信簿だった。
ダンスと動画も曲を押し上げた。2019年のリル・ナズ・Xは、TikTokでの拡散が火種になって世界的ヒットになった。曲の冒頭15秒が使われるかどうかが、制作の段階から意識されるようになる。「アルバムの一曲目から聴いてもらう」より「最初の数秒で止められない」ことが価値になった——それが2010年代のトラップを速く、短く、中毒的にした背景のひとつだ。













































































50周年を越えて——世界同時に細かく枝分かれする
ビーフは、ヒップホップ最古の遊びのひとつ。2024年に燃え上がったその火は、2025年にグラミー賞とスーパーボウルまで届いた。



2020年代に入ると、ヒップホップはもはや「ひとつのジャンル」ではなく、世界中の街で別々の進化を遂げる巨大な共通言語になった。ブルックリンやロンドンでは、不穏なベースのドリル(ポップ・スモークの「Welcome to the Party」2019がブルックリン・ドリルの象徴になった。2020年、彼は20歳で亡くなっている)。ラテン圏ではレゲトンと混ざり合い、アフリカではアフロビーツと結びつき、韓国や日本では独自のシーンが育つ。同時に、パンデミック下のゲーム内ライブ(トラヴィス・スコットの『Fortnite』コンサートは初回だけで同時1,000万人超が参加した)のように、「ライブ」の定義も広がった。
2023年は、ヒップホップ誕生から50年の節目だった。ニューヨークでは記念イベントが開かれ、グラミー賞の授賞式では、グランドマスター・フラッシュ、Run-DMC、ラキム、バスタ・ライムスから、リル・ウェイン、フューチャー、そして世代を超えたラッパーたちが一堂に会する大規模なトリビュートが行われた。1973年にブロンクスの集会室で始まった夜が、世界の中心の舞台で祝われた瞬間だった。
Kendrick vs Drake、そして「Not Like Us」
2024年、ヒップホップを今の時代でも本気の競技だと思い出させたのが、ケンドリック・ラマーとドレイクの対立だ。フューチャー&メトロ・ブーミンの「Like That」でのケンドリックの一節をきっかけに、両者は立て続けにディス曲を応酬。5月に出たケンドリックの「Not Like Us」は、ロサンゼルスの地元プロデューサー、マスタードの跳ねるビートに乗せて、西海岸のクラブでも、ホームパーティーでも、スポーツ観戦の会場でも鳴り響いた。
この曲は、2025年のグラミー賞で、年間最優秀レコードと最優秀楽曲を含む5部門を獲得する。続くスーパーボウル(2025年2月)のハーフタイムショーでは、ケンドリックがヘッドライナーを務めた。1980年代の「ブリッジ戦争」から続く、「言葉でやり合う」という古い文化が、世界最大の舞台で肯定された、とも言える。
私たちが生きているのは、その続きだ。50年前にブロンクスで鳴ったブレイクのループは、いまスマホの中で、SoundCloudやTikTokやYouTubeで、世界のどこかの寝室から新しい声を生みつづけている。この物語はまだ書き終わっていない。
2020年代のあの人たち——近況メモ
- ドレイク 『Certified Lover Boy』(2021)、『Honestly, Nevermind』(2022)でハウス寄りの作風にも挑戦し、21 Savageとの『Her Loss』(2022)も話題に。
- ケンドリック・ラマー 『Mr. Morale & the Big Steppers』(2022)、2024年に突然発表した『GNX』。ビーフと並行して表現の幅を広げ続けている。
- トラヴィス・スコット 『Utopia』(2023)が全米1位。ライブ演出と映像を含めた世界観づくりで、いまも最前線にいる。
- フューチャー&メトロ・ブーミン 2024年に『We Don't Trust You』と『We Still Don't Trust You』を連続発表。トラップの現在地を象徴する共作になった。
- タイラー・ザ・クリエイター 『Call Me If You Get Lost』(2021)でグラミー賞、『Chromakopia』(2024)も全米1位に。
- プレイボーイ・カーティ 『Whole Lotta Red』(2020)の発売後、新作『MUSIC』(2025)まで長い沈黙を挟み、そのたびに話題をさらった。





























→ Trap
ブームバップからトラップへ——何が変わって、何が変わらなかったか
古い音と新しい音は、敵同士ではない。同じ川の上流と下流だ。聴き比べるための地図を作った。



ブームバップとは
「ブームバップ(Boom Bap)」は、キックの「ブーン」とスネアの「バップ」を音にした呼び名だ。KRS-Oneが1993年のソロ・デビュー作に『Return of the Boom Bap』と名づけたことで定着した。1980年代後半から90年代にかけての、ニューヨークを中心にしたヒップホップのサウンドの総称で、テンポは85〜95BPM前後。キックが1拍目と3拍目、スネアが2拍目と4拍目に入る、人間が首を縦に振って揺れる速さと形をしている。
ドラムの多くは、ジェームス・ブラウンの「Funky Drummer」や、ザ・ウィンストンズの「Amen, Brother」のような、古いファンクやソウルのレコードのブレイクを切り出して作る。その上に、ジャズのピアノやホーン、ソウルの歌声の断片をループさせる。使うのはターンテーブルとサンプラー——とくにE-mu SP-1200はサンプリングできる時間がわずか10秒ほどで、少ない容量にぎゅっと音を詰め込む工夫が、あの独特の荒いざらつきを生んだ。歌詞のほうは、複数の音節を重ねて踏む複雑な韻、物語を語るストーリーテリング、そして相手を打ち負かす言葉の格闘技(バトル)。「うまいラップとは何か」の基準は、この時代に固まった。
トラップとは
「トラップ(Trap)」は、先にふれたとおり、アトランタの隠語で麻薬を売る場所を指す言葉だ。音としてのトラップは、2000年代のアトランタで育ち、2010年代に世界へ広がった。テンポは130〜150BPM前後と速いが、ビートは半分の速度(65〜75BPM)で重く感じるよう組まれる。キックには、あのTR-808の長く伸びる低音。スネアやクラップは3拍目に1発。そして最大の特徴が、1拍を3つや4つ、あるいはそれ以上に刻むハイハットの細かい連打(ロール)だ。ピッチを上げ下げして転がすことで、機械なのに生き物のように聞こえる。上には暗いシンセ、鐘のようなメロディ、映画音楽のようなストリングスが乗る。
制作の道具も変わった。古いレコードとサンプラーの代わりに、パソコンのソフト(トラップではFL Studioがその代表格)と、プラグインの音源。極端に言えば、ノートパソコン一台と数万円のヘッドホンで、一曲が完成する。この「敷居の低さ」が、SoundCloudから世界に飛び出す十代を何人も生んだ。歌詞は、同じフレーズを繰り返すフック、短い決めゼリフ、「スカー!」のような合いの手(アドリブ)が中心。メロディをつけて歌うように伸ばし、オートチューンで声を楽器のように加工する。




「808」という一本の線
二つは対立しているようで、実は同じ線上にある。1982年の「Planet Rock」で鳴ったTR-808の低音は、マイアミ・ベース(2 Live Crewなど)、ヒューストンやメンフィスの南部ヒップホップ、アトランタのクランク、そして2000年代のトラップへと、途切れることなく受け継がれてきた。808の低音は、ニューヨークの「言葉の文化」とは別の、南部の「身体の文化」の系譜だ。90年代にその二つが別々の場所で育ち、2010年代、ストリーミングという一つの舞台で出会った。いま世界で流れる曲の骨格は、ほとんどが「ニューヨーク的な語りの技術」と「南部的な低音の身体性」の混血でできている。
ブレイクの引き延ばし→1982 Planet Rock
TR-808→80-90s 南部
Miami bass / UGK / Three 6→2003 Trap Muzik
T.I.→2010 Lex Luger
ロール→2013 Migos
三連フロウ→いま
だから「昔のヒップホップは良かった、今は…」という言い方は、実は少しもったいない。ブームバップは「言葉とサンプルの美学」を、トラップは「声とリズムの快楽」を、それぞれ極限まで磨いた。しかも、古いほうは消えていない。バッファローのグリゼルダ、ケンドリック・ラマーの一部作品、J・コールなどが、ブームバップの質感を現代に持ち込み続けている。日本のヌジャベス(Nujabes)の音は、ジャズのサンプルを滑らかに刻むスタイルで、世界のローファイ・ヒップホップの原風景のひとつになった。
20年以上の時間が空いているのに、街の暗さを描く手つきは、驚くほど似ているはずだ。ドラムの速さも、声の使い方も違う。でも、「ここにしかない現実を、ここにある道具で音にする」という態度は、1973年のあの夜と何も変わっていない。
▶ サムネイルを押すとその場で再生されます(YouTubeの「プライバシー強化モード」で読み込みます)。動画によっては「YouTubeで開く」から見たほうが良い場合があります。
同じ4拍、違う街——ヒップホップの地図
ブロンクスからアトランタ、ロンドン、ソウルまで。街が違えば、低音も言葉も変わる。ヒップホップを地図の上で歩いてみよう。
ここまでは時代順に追ってきた。この章は地図で見る。同じビートの文化でも、どの街で鳴るかで、速さも低音も言葉も別物になる。
ニューヨーク——五つの区、五つの顔
ブロンクスはすべての出発点だ。クール・ハークのパーティーからKRS-One、ビッグ・パン、カーディ・Bまで、いまも「始まりの区」であり続ける。クイーンズは、Run-DMCとLL・クール・J、そして北米最大級の公営住宅団地クイーンズブリッジからナズとモブ・ディープを送り出した、言葉の職人の街だ。
ブルックリンは、ビギーとジェイ・Zの故郷。2010年代にはUKドリルの影響を受けた「ブルックリン・ドリル」が生まれ、ポップ・スモークやフィヴィオ・フォーリンが現れた。ハーレムは、キャムロンらが1997年に結成したディプロマッツと、A$AP Rockyを生んだ街だ。そしてスタテン島は、ウータン・クランが「シャオリン」と呼んだ小さな島。そこから9人が世界を揺らした。
ロサンゼルスとベイエリア——西海岸は一つではない
ロサンゼルスはN.W.AとGファンクの街のまま、いまも更新を続けている。コンプトンからはケンドリック・ラマーが現れ、地元育ちのマスタードは、手拍子のように跳ねるクラブ向けのビートで「Not Like Us」(2024)まで鳴らした。クレンショーに自分の店を開いたニプシー・ハッスル(2019年に33歳で死去)は、街ごと育てる姿勢の象徴になった。
湾の向こうのベイエリアは、もっと独立志向が強い。2000年代半ばに全米へ届いたハイフィ(hyphy、hyperactiveの略)は、オークランドやヴァレーホで育った熱狂の文化だ。硬いベース、早口、走る車から降りて踊る「ゴーストライド」。E-40、キーク・ダ・スニーク、そして2004年に34歳で亡くなったヴァレーホのマック・ドレが象徴で、その痕跡はのちのトラップにも残る。
南部——五つの街、五つの低音
アトランタは、ダンジョン・ファミリー(アウトキャストら)からクランク、スナップを経て、T.I.の『Trap Muzik』(2003)でトラップの本拠地になった。ヒューストンは、DJスクリューが1990年代前半に編み出した「チョップド&スクリュード」の街だ。ゲットー・ボーイズ、スウィシャハウスのマイク・ジョーンズ、のちのトラヴィス・スコットとミーガン・ジー・スタリオンが続いた。
メンフィスは、安いテープとTR-808で作る、暗くざらついた音の街だ。スリー・6・マフィアは2006年、映画『Hustle & Flow』の曲でヒップホップ・グループとして初めてアカデミー賞(歌曲賞)を受賞した。ニューオーリンズは、定番ループ「トリガーマン・ビート」を使い回し、掛け声で踊る「バウンス」の街で、キャッシュ・マネーとビッグ・フリーディアを生んだ。マイアミでは、130BPM前後の808を車のスピーカーで鳴らすマイアミ・ベースが育った。
南部のラップは、言葉より先に低音が身体に効く。その発想が、のちのトラップの骨格になった。
デトロイトとシカゴ——中西部の二つの顔
デトロイトは、腕を試される街だ。1993年開店のヒップホップ・ショップではプルーフが主催するバトルが名物になり、エミネムらが腕を磨いた。J・ディラとスラム・ヴィレッジの柔らかなビートも、同じ街の産物だ。近年はティー・グリズリーの「First Day Out」を弾みに、サダ・ベイビー、ベイビーフェイス・レイ、ヴィーズらが現れた。跳ねるリズムと、揺れるように歪んだベースが目印だ。
シカゴは、言葉の街と路上の街が背中合わせにある。コモンは『Resurrection』(1994)で、ヒップホップを一人の女性に見立てた「I Used to Love H.E.R.」を書き、カニエ・ウェスト、ルーペ・フィアスコ、チャンス・ザ・ラッパーが内省的な流れを継いだ。その対極で2010年代初頭に現れたのが、サウスサイド発のドリルだ。当時16歳のチーフ・キーフが「I Don't Like」(2012)で、暗く跳ねるその音を世界に知らせた。
トロント——夜の音をつくったOVO
カナダでは1989年、マエストロ・フレッシュ・ウェスの「Let Your Backbone Slide」が、同国のラッパーとして初めてゴールド・シングルを記録したとされ、道を開いた。トロントはカリブ系の移民が多く、ジャマイカやトリニダードのリズムとスラングが混ざった独特の響きを持つ。そこから世界へ出たのがドレイクだ。プロデューサーの40(ノア・シェビブ)らと作る暗く静かな低音を軸に、OVO(October's Very Own)は2010年にフェスOVO Fest、2012年にワーナーと組んだレーベルOVO Soundを築き、パーティネクストドアやdvsnを送り出した。
ロンドン——グライムとUKドリル
英国では、ヒップホップが別の街の音と混ざった。グライム(grime)は2000年代初頭の東ロンドンで、UKガラージ、ジャングル、ダンスホールが混ざって生まれた約140BPMの鋭い音楽だ。海賊ラジオが広め、ワイリーが先駆けた。ディジー・ラスカルは『Boy in da Corner』(2003)で、10代にしてマーキュリー賞の最年少受賞者になる。スケプタは2016年に同賞を受け、ストームジーの『Gang Signs & Prayer』(2017)はグライム作品として初めて全英アルバム1位になった。ストームジーは2019年、黒人の英国人ソロ・アーティストとして初めてグラストンベリーのピラミッド・ステージでヘッドライナーを務めた。
2012年ごろからは、ロンドン南部ブリクストンでUKドリルが生まれた。シカゴのドリルを下敷きに、滑る808と独特のハイハット、英国のスラングを乗せた音だ。150や67といった集団が先駆けで、ヘディ・ワンの『Edna』は全英1位になった。ブルックリン・ドリルは、このUKドリルの制作者たちの影響を受けている。ドレイクも『More Life』(2017)にスケプタとジグスを招いた。
スペイン語のラップ、韓国、そして日本
ラテン圏では、キューバ生まれの兄弟、メロウ・マン・エースとセン・ドッグがロサンゼルスで先駆けになった。メロウ・マン・エースの「Mentirosa」(1990)は二言語のヒットとされ、セン・ドッグらのサイプレス・ヒルは英語とスペイン語を混ぜて、『Black Sunday』(1993)で全米アルバム1位に立った。ニューヨークのビッグ・パンは『Capital Punishment』(1998)でラティーノのソロ・ラッパーとして初のプラチナ認定を受け、2000年に28歳で亡くなった。
別の流れが、パナマとプエルトリコで育ったレゲトンだ。ダディ・ヤンキーの「Gasolina」(2004)が世界への扉を開き、2010年代にはプエルトリコからラテン・トラップが広がった。バッド・バニーは、スポティファイの年間最多再生アーティストに2020年から3年連続で輝き、2026年には『Debí Tirar Más Fotos』でスペイン語のアルバムとして初めてグラミー賞の年間最優秀アルバムを獲得した。
韓国のヒップホップは、米軍基地周辺やイテウォンのクラブを通じて入ってきた。1992年にソ・テジ・ワ・アイドゥルが米国流のラップとダンスを大衆に広め、1999年デビューのドランクン・タイガー、2003年デビューのエピック・ハイらが支持を集めて、ホンデのクラブがシーンの中心になる。2012年にMnetが始めた『Show Me the Money』がヒップホップをお茶の間の娯楽にし、2015年にはキース・エイプの「It G Ma」がネットで世界に広まった。
日本の歩みは別の章にまとめた。ここでは街の色だけ。1999年に札幌のTHA BLUE HERBが『Stilling, Still Dreaming』を出し、地方発の存在感を示した。2024年2月には川崎のBAD HOPが、国内のヒップホップ・アーティストとして初めて東京ドームで単独公演を行って解散した。日本の強さは、各地の街に根を張るクルーにある。
街の音 早見表
- 1990sLos Angeles
Gファンク
ゆっくり揺れる低音、口笛のようなシンセ、女性コーラス。ドクター・ドレー、スヌープ・ドギー・ドッグ、ウォーレン・G。
- 2000sOakland / Vallejo
ハイフィ
硬いベースと早口、走る車に合わせて踊る熱狂の文化。E-40、キーク・ダ・スニーク、マック・ドレ。
- 1980sMiami
マイアミ・ベース
130BPM前後のTR-808を車載スピーカーで鳴らす。踊るための低音。2 Live Crew、MC A.D.E.、ルーク(ルーサー・キャンベル)。
- 1990sNew Orleans
バウンス
定番ループ「トリガーマン・ビート」と、掛け合いのコール。DJジュビリー、ビッグ・フリーディア、キャッシュ・マネーのマニー・フレッシュ。
- 1990sHouston
チョップド&スクリュード
曲を遅く回し、声を引き延ばす酩酊感。DJスクリュー、ポール・ウォール、マイク・ジョーンズ。
- 1990sMemphis
メンフィス・ラップ
暗く歪んだローファイな質感と808、カセットでの口コミ流通。スリー・6・マフィア、プロジェクト・パット、DJスパニッシュ・フライ。
- 2000sAtlanta
トラップ
重い808、暗いシンセ、細かく刻むハイハット。T.I.、ヤング・ジージー、のちにミーゴスとフューチャー。
- 2010sChicago
ドリル
不穏なシンセと、跳ねるハイハット。サウスサイドの路上を映した音。チーフ・キーフ、リル・ダーク、ヤング・チョップ。
- 2000sEast London
グライム
約140BPMの鋭いビートと早口のMC。海賊ラジオから広がった。ディジー・ラスカル、ワイリー、スケプタ、ストームジー。
- 2010sBrixton, London
UKドリル
滑る808と独特のハイハット、英国のスラング。ヘディ・ワン、67、150。ブルックリン・ドリルにも影響した。
独立、提携、買収、そして再び独立——ヒップホップ・レーベルの45年
ヒップホップを街角から世界へ運んだのは、ラッパーだけではない。レコードを刷り、売り込み、ときに権利まで握った「レーベル」の側から、1979年以降の歴史を読み直す。


一枚の12インチが、産業を動かした
ラップが広く「商品」として売れはじめた1979年、その舞台は大手ではなく、ニュージャージー州の小さなレーベルだった。シュガーヒル・レコード(Sugar Hill Records)を率いたのは、シルヴィア・ロビンソン。彼女が世に出した「Rapper's Delight」は、世界で1,400万枚を売ったとも伝えられる。だが同社は1985年に破産を申請し、翌年に姿を消した。
1981年創業のトミー・ボーイ(Tommy Boy)は、ダンス音楽の業界誌を出していたトム・シルヴァーマンが興し、アフリカ・バンバータの「Planet Rock」(1982)を送り出した。同じ1981年に生まれたプロファイル(Profile)は、ラッセル・シモンズが持ち込んだデモを機にRun-DMCと契約。そのデビュー・アルバム(1984)は、ラップのアルバムとして初めてゴールド認定を受けた。
1984年にはデフ・ジャム(Def Jam)が始まる。リック・ルービンとシモンズが、ニューヨーク大学の寮の一室を拠点に興した会社だ。翌1985年にCBS/コロムビアが配給を引き受け、同じ年にワーナーがトミー・ボーイの株の半分を取得した。ここで骨格になる分業ができる。音楽を見つけて育てるのは小さな独立レーベル、工場と流通は大手。リスクは街の目利きが負い、大手は売れた分だけ利益を得る仕組みだ。
90年代——レーベルが「陣営」になった
ロゴが旗印になるのは90年代だ。コンプトンでは1987年にイージー・Eがルースレス(Ruthless)を興し、N.W.Aを送り出す。そこを離れたドクター・ドレーは1991年、シュグ・ナイトらとデス・ロウ(Death Row)を設立。インタースコープの資金と配給を後ろ盾に、『The Chronic』(1992)と『Doggystyle』(1993)を連発し、1995年には2Pacも加わった。
ニューヨークでは1993年、パフ・ダディ(ショーン・コムズ)がバッド・ボーイ(Bad Boy)をアリスタの配給で立ち上げ、翌年のビギー『Ready to Die』で花開く。ウータン・クランが契約したラウド(Loud)は、メンバーが他社とソロ契約を結んでよいという条件を認めている。
デス・ロウは、1996年のドレーの離脱と2Pacの死、同年秋に始まった創業者ナイトの収監(保護観察違反。1997年2月に禁錮9年の判決)が続き、急速に力を失った。
原盤を握る者が勝つ
長く稼ぐのは、原盤(マスター音源)の持ち主だ。マスターPのノー・リミット(No Limit)は、カリフォルニア州リッチモンドのレコード店から出発し、1995年にニューオーリンズへ移る。90年代半ばにプライオリティと結んだ配給契約でも、原盤は手放さなかった。1998年だけで23枚のアルバムを出した。同じ街のキャッシュ・マネー(Cash Money)は、1998年にユニバーサルと3年・約3,000万ドルの配給契約を結んだと伝えられる。傘下のヤング・マネー(2005年)からは、ドレイクやニッキー・ミナージュが飛躍した。
ジェイ・Zも同じ方向を向いた。大手に断られた彼は、デイモン・ダッシュ、ビッグス・バークと1994〜95年ごろにロッカフェラ(Roc-A-Fella)を立ち上げ、『Reasonable Doubt』(1996)をプライオリティの配給で出す。1997年にデフ・ジャムと対等な提携を結び、2004年12月、デフ・ジャムが残りの持ち分を買い取るとともに、ジェイ・Z本人が同社の社長に就いた。レーベルを興した男が、巨大レーベルのトップに座ったのだ。
少数精鋭の工房と、地下の灯
大手の内側にも小さな工房があった。ドクター・ドレーが1996年に始めたアフターマス(Aftermath)は、インタースコープ経由で配給される会社として、1998年にエミネムと契約し、2002年に50セントを迎える。エミネムも1999年、マネージャーとシェイディ(Shady)を設立した。
独立の旗も折れなかった。ロウカス(Rawkus)はブラック・スター(1998)で、ストーンズ・スロウ(Stones Throw、1996年設立)は『Madvillainy』(2004)や『Donuts』(2006)で、アンダーグラウンドの灯をともした。
ストリーミング以後——レーベルは「ブランド」になった
2010年代、SoundCloudやストリーミングが音楽を届ける費用を大きく下げた。独立系の配給会社EMPIRE(2010年創業)のように、小さな才能の入り口になる会社も育つ。そこで力を持ったのが、アーティスト自身が率いる「レーベル兼ブランド」だ。
カーソンのTDE(Top Dawg Entertainment、2004年設立)は2012年、アフターマス、インタースコープとの共同事業を結び、ケンドリック・ラマーが両方に所属する形をつくった。ドレイクのOVOは同じ2012年にワーナーとの提携を発表。J・コールが2007年に興したドリームヴィル(Dreamville)は2014年にインタースコープと組み、2019年の『Revenge of the Dreamers III』は、アトランタでの10日間のセッションから生まれて全米1位に。
トラップの世代も同じ道を歩む。アトランタのクオリティ・コントロール(Quality Control、2013年設立)はミーゴスやリル・ベイビーらを送り出し、2023年にHYBEの米国法人が約3億ドルで買収した。トラヴィス・スコットのカクタス・ジャック(Cactus Jack)も2017年に生まれた。バッファローのグリゼルダ(Griselda)は限定プレスのレコードで力をつけ、2017年にシェイディと契約した。
もうひとつの合言葉が360度契約だ。音源だけでなくライブ、グッズ、広告、出版まで収入源を分け合う契約で、2002年のEMIとロビー・ウィリアムスの契約が知られる。ジェイ・Zは2008年、ライブ・ネーションとの約1.5億ドルと報じられた契約を機にロック・ネイション(Roc Nation)を設立する。レーベルは、マネジメントも興行も服も抱えるブランドの母体へと姿を変えた。
クラブで曲が流れるとき、レーベルのロゴは見えない。それでも、誰が曲を見つけ、誰が資金を出し、誰が権利を持つか——その駆け引きが、この文化の形を決めてきた。
ロゴで読む、14のレーベル
- 1979Sugar Hill Records
ラップに値札をつけた
ニュージャージー州イングルウッドで、シルヴィア・ロビンソンらが設立。「Rapper's Delight」(1979)と、グランドマスター・フラッシュの「The Message」(1982)を送り出した。
- 1981Tommy Boy Records
業界誌の発行人が興した
トム・シルヴァーマンが親からの借り入れで創業した。デ・ラ・ソウル、クイーン・ラティファ、ノーティ・バイ・ネイチャーと契約し、1985年にワーナーが半分の株を取得した。
- 1984Def Jam Recordings
寮の一室から
リック・ルービンとラッセル・シモンズが設立。LL・クール・J、ビースティ・ボーイズ、パブリック・エナミーらを擁し、のちにポリグラム、ユニバーサルの傘下へ移った。
- 1987Ruthless Records
コンプトンから全米へ
イージー・Eが設立し、N.W.A『Straight Outta Compton』(1988)を出した。ボーン・サグスン・ハーモニーとも契約したが、イージー・Eは1995年に亡くなった。
- 1991Death Row Records
西海岸の音を決めた
ドクター・ドレー、シュグ・ナイトらが設立。スヌープ・ドッグと2Pacを擁して頂点に立ち、のちに破産を経て、2022年にスヌープが買い取った。
- 1991Cash Money Records
ニューオーリンズの兄弟
バードマンとスリムのウィリアムス兄弟が創業。ジュヴェナイルの『400 Degreez』(1998)は全米9位、複数のプラチナを獲得した。ヤング・マネーを通じて、リル・ウェインからドレイクへつながる。
- 1991No Limit Records
原盤を手放さなかった
マスターPが小さなレコード店から築いた。1998年の『MP da Last Don』は全米1位。2003年末に破産を申請したが、原盤を握る戦略の代表例として語られる。
- 1993Bad Boy Records
成功そのものを売った
パフ・ダディ(ショーン・コムズ)が設立し、最初はアリスタが配給。クレイグ・マックの「Flava in Ya Ear」(1994)とビギーの『Ready to Die』(1994)で走り出した。
- 1994Roc-A-Fella Records
レーベルを興し、トップに座った
ジェイ・Z、デイモン・ダッシュ、ビッグス・バークが設立。カニエ・ウェストやビーニー・シーゲルを擁したが、2013年に活動を終えた。
- 2004Top Dawg Entertainment
カーソンの小さな工房
アンソニー・「トップ・ドッグ」・ティフィスが設立。ケンドリック・ラマー(2022年まで)、ジェイ・ロック、スクールボーイ・Q、SZAらを擁する。
- 2012OVO Sound
ドレイクの看板
ドレイク、プロデューサーのノア・「40」・シェビブ、マネージャーのオリヴァー・エル=ハティブらの「OVO」から生まれた。2013年にパーティネクストドアらと契約している。
- 2012Griselda Records
限定盤で火をつけた
ウェストサイド・ガン、コンウェイ・ザ・マシーン、ベニー・ザ・ブッチャーが核。ロンドンの小レーベルDaupe!から限定盤を出し、2019年にシェイディ/インタースコープから『WWCD』を出した。
- 2013Quality Control Music
アトランタの新世代を束ねる
ピエール「P」・トーマスとケヴィン「コーチ・K」・リーがアトランタで設立。リル・ベイビーやリル・ヨッティらを擁し、2023年にHYBE傘下に入った。
- 2017Cactus Jack Records
スターが育てる新人たち
トラヴィス・スコットが2017年1月に設立。シェック・ウェスやドン・トリヴァーらを抱える。作品の配給はアーティストごとに異なり、トラヴィス本人はエピック、ドン・トリヴァーはアトランティックと組む。
ターンテーブルからラップトップへ——ビートを作る手は、どう変わったか
ラッパーの後ろには、いつも「音を作る人」がいた。道具が変わるたびにビートの手触りが変わり、やがて作り手そのものがスターになっていく。



道具が変わるたび、ビートが変わった
ビートを作る仕事は、DJから始まった。2枚のターンテーブルでブレイクを引き延ばしたクール・ハークの時代から、1980年のローランドTR-808、1985年のE-mu SP-12、1987年のSP-1200、1988年のAkai MPC60へ。SP-1200は録れる時間が約10秒と短く、音質も荒い。その荒さが、かえって「ざらついた温かさ」として愛された。MPC60は4×4のパッドを叩いて組み立てる設計で、のちのビートメイカーの手つきの原型になった。
ニューヨークの職人たち
マーリー・マール(Marley Marl)は、クイーンズブリッジのジュース・クルーの中心人物だ。1986年のMCシャン「The Bridge」などで、ドラムの音を一つずつ取り込んで組み直す手法を広めた。本人の説明では、ボーカルを取り込む最中にスネアが紛れ込んだのが発見のきっかけだったという。
90年代に入ると、サンプルを刻む職人芸が頂点に達する。DJプレミアはギャング・スターのほぼ全作品を手がけ、ナズ『Illmatic』(1994)では「N.Y. State of Mind」などを担当した。ピート・ロックはSP-1200を長く愛用し、ソウルを温かく切り出した「T.R.O.Y.」(1992)で名を上げ、『Illmatic』では「The World Is Yours」を作った。RZAは『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』(1993)を、エンソニックのサンプラー(EPS-16 PlusやASR-10)を中心にした安価な機材で組んだとされる。
プロデューサーが「ブランド」になる
ドクター・ドレーは、サンプル中心の制作から、スタジオに演奏者を呼ぶ手法へ重心を移していった。1996年にアフターマスを設立し、エミネムと50セントを世に出す。ジミー・アイオヴィンとヘッドフォンのビーツを立ち上げ、2014年にはアップルが約30億ドルで買収すると発表した。ビートを作る人が、巨額の取引の主役になった。
ヴァージニア・ビーチからは二つの名前が出てくる。ティンバランドは1996年にアリーヤ『One in a Million』の大半を、1997年にミッシー・エリオットのデビュー作『Supa Dupa Fly』を手がけ、ヒップホップとR&Bの境目を溶かした。ザ・ネプチューンズ(ファレル・ウィリアムスとチャド・ヒューゴ)はブリトニー・スピアーズ、ジャスティン・ティンバーレイクへと活躍の場を広げ、2004年にグラミー賞の最優秀プロデューサーを受賞する。
カニエ・ウェストはシカゴで育った。2000年ごろにロッカフェラの専属になり、ジェイ・Zの『The Blueprint』(2001)で注目された。2004年のデビュー作『The College Dropout』は、MPCも使って組んだトラックに自分の声を乗せたアルバムだった。プロデューサーが、そのまま表の顔になる道がここで開く。
影の職人——J・ディラとマッドリブ
流行とは別の場所で、ビートの質感を磨いた人たちがいる。デトロイトのJ・ディラは、MPC3000のクオンタイズ(拍の自動補正)を切り、わずかによれたリズムを作った。その揺れは「ディラ・タイム」と呼ばれる。2006年2月7日に『Donuts』を出し、3日後の10日、32歳で亡くなった。オックスナードのマッドリブはボスのSP-303などを使ったサンプル主体の制作で知られ、MFドゥームとの『Madvillainy』(2004)を残した。
FLスタジオと808——南部の時代
2000年代以降、制作の中心は専用機からパソコンに移る。1991年登場のPro Toolsがスタジオの標準になり、1997年末に最初の版が出たFruity Loops(2003年にFL Studioへ改称)は、若いビートメイカーの入り口になった。
ザイトーヴェン(Zaytoven)は教会でピアノとオルガンを覚え、グッチ・メインと組み、ミーゴスの「Versace」(2013)なども手がけた。レックス・ルガーはFLスタジオとMPCでビートを作り、MySpaceでの連絡をきっかけにワカ・フロッカ・フレイムと組む。「Hard in da Paint」は2010年5月までにヒットし、同年にはリック・ロスの「B.M.F.」も彼の制作だ。
2010年代の主役がメトロ・ブーミンだ。セントルイス出身で、13歳でFLスタジオを触り始めた。ミーゴスの「Bad and Boujee」(2016)で初の全米1位を手がけ、2018年の『Not All Heroes Wear Capes』と2022年の『Heroes & Villains』はともに全米アルバム・チャート初登場1位。2024年のフューチャーとの『We Don't Trust You』からは、ケンドリック・ラマー参加の「Like That」が全米1位に届いた。
ロサンゼルスのマスタード(Mustard)は、808と手拍子、シンセ、掛け声を軸にしたビートで知られ、タイガ「Rack City」(2011)が全米7位。2024年のケンドリック・ラマー「Not Like Us」の制作を務め、同曲は2025年のグラミー賞で5部門を制した。マイク・ウィル・メイド・イットは「23」(2013)がデビュー・シングルで全米11位に入り、ケンドリックの「HUMBLE.」でグラミー賞の最優秀ラップ・ソングを受賞する。ヒット・ボーイはナズ『King's Disease』(2020)を手がけ、同作は2021年のグラミー賞で最優秀ラップ・アルバムに選ばれた。
声の署名と「タイプ・ビート」
プロデューサーが主役になった証拠のひとつが、曲の頭で鳴る「プロデューサー・タグ」だ。自分の名前を呼ぶ短い声の署名で、メトロ・ブーミンのタグは、フューチャーの声で知られる。もうひとつ、YouTubeやSoundCloudではアーティストの雰囲気を真似た「タイプ・ビート」が売買される文化も広がった。
ビートを作る場所は、スタジオから寝室へ移った。メトロ・ブーミンもレックス・ルガーも、FLスタジオから始めている。ノートパソコン1台と制作ソフトがあれば、ロサンゼルスでもアトランタでも、盛岡でも、最初の一曲は作り始められる。
16人のビートメイカー
- 1986Marley Marl
ドラムを一音ずつ組み直した
ジュース・クルーの中心人物。ビッグ・ダディ・ケーンの『Long Live the Kane』(1988)、ビズ・マーキーの『Goin' Off』(1988)を全面的に手がけた。
- 1992Dr. Dre
Gファンクを決めた
N.W.Aのあと『The Chronic』(1992)で西海岸の音を決定づけた。アフターマスからエミネムや50セントを世に出し、ビーツは2014年にアップルが約30億ドルで買収すると発表した。
- 1992Pete Rock
ソウルを温かく切り出す
ピート・ロック&C.L.スムース『Mecca and the Soul Brother』(1992)の制作者。ナズ『Illmatic』の「The World Is Yours」も手がけた。
- 1993RZA
ウータンの設計者
ウータン・クランを1992年に結成し、『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』(1993)を制作。映画『キル・ビル』などの映画音楽も手がけた。
- 1994DJ Premier
刻んだ声がフックになる
ギャング・スターのほぼ全作品を手がけ、『Illmatic』では「N.Y. State of Mind」「Memory Lane」「Represent」を担当した。2023年のビルボード誌の歴代ラップ・プロデューサー・ランキングで3位。
- 1996Timbaland
ラップとR&Bの境目を溶かした
アリーヤ『One in a Million』(1996)の大半と、ミッシー・エリオット『Supa Dupa Fly』(1997)を制作。のちにティンバーレイクの『FutureSex/LoveSounds』(2006)も手がけた。
- 2001The Neptunes
ヴァージニア・ビーチの二人組
ファレル・ウィリアムスとチャド・ヒューゴ。ブリトニー・スピアーズ(2001)やジャスティン・ティンバーレイク(2002)を手がけ、2004年にグラミー賞の最優秀プロデューサーを受賞した。
- 2001Kanye West
専属から表の顔へ
ロッカフェラの専属として『The Blueprint』(2001)で頭角を現し、チップマンク・ソウルで知られる。2004年の『The College Dropout』はグラミー賞の最優秀ラップ・アルバムに選ばれた。
- 2004Madlib
ストーンズ・スロウの鬼才
オックスナード出身。MFドゥームとの『Madvillainy』(2004)がいまも崇拝され、ボスのSP-303などで、ざらついたビートを作る。
- 2006J Dilla
よれたリズムの発明者
MPC3000のクオンタイズを切った独特の揺れで、コモンやスラム・ヴィレッジの作品に関わった。『Donuts』の発売3日後、32歳で亡くなった。
- 2010Lex Luger
MySpaceから届いたビート
ヴァージニア州の10代がFLスタジオで量産したビートで、「Hard in da Paint」や「B.M.F.」(ともに2010)がヒット。『Watch the Throne』にも参加した。
- 2011Mustard
跳ねる西海岸のクラブ・サウンド
ロサンゼルス生まれ。タイガ「Rack City」(2011)で全米7位を記録し、2025年には「Not Like Us」でグラミー賞の最優秀レコードを受賞した。
- 2013Zaytoven
教会のピアノがトラップに
ピアノとオルガンを教会で学び、グッチ・メインらアトランタの音を支えた。ミーゴスの「Versace」(2013)も制作した。
- 2013Mike WiLL Made-It
アトランタ郊外から全米へ
マリエッタ出身。「23」(2013)がデビュー・シングルで全米11位。ケンドリック・ラマー「HUMBLE.」で、2018年のグラミー賞最優秀ラップ・ソングを受賞した。
- 2016Metro Boomin
声の署名をブランドにした
セントルイス出身。ミーゴス「Bad and Boujee」(2016)で初の全米1位を手がけ、2024年には「Like That」で、リード・アーティストとして初の全米1位を獲得した。
- 2020Hit-Boy
ナズとの共作で頂点へ
カリフォルニア州フォンタナ出身。FLスタジオを使い、ナズ『King's Disease』(2020)を制作して、2021年のグラミー賞最優秀ラップ・アルバムを受賞した。
「唯一の女性」から、流行を決める側へ——女性ラッパーたちの40年
シャ・ロックからドゥーチーまで。女性たちは「例外」と呼ばれた時代を越え、チャートも権利も握る側に立った。



ヒップホップの歴史に、女性は最初からいた。ただ長いあいだ、語られ方は「例外」だった。その立ち位置が、40年をかけて変わっていく。
先駆者たち——1980年代
最初の女性MCとされるのが、ブロンクスのシャ・ロックだ。所属するFunky 4 + 1は1981年2月14日、『サタデー・ナイト・ライブ』に出演し、ヒップホップのグループとして初めて全米のテレビで演奏した。1984年、当時14〜15歳だったロクサーヌ・シャンテは、UTFOの曲への返答「Roxanne's Revenge」を発表。返答曲が数十から100曲超も飛び交う「ロクサーヌ戦争」の火種になった。
続いて、ソルト・ン・ペパが『Hot, Cool & Vicious』(1986)で女性ラップ・アクト初のゴールド&プラチナ認定を受けた。ブルックリンのMCライトは17歳で、女性初のフル・ソロ作『Lyte as a Rock』(1988)を出す。1995年のグラミー賞では、ソルト・ン・ペパとクイーン・ラティファ(「U.N.I.T.Y.」)がそろって受賞した。
スターの時代——1990年代後半から2000年代
ローリン・ヒルは『The Miseducation of Lauryn Hill』(1998)で、翌年のグラミー賞で5部門を受賞した。ミッシー・エリオットは自分のレーベルから『Supa Dupa Fly』(1997)でデビューした。ブルックリンのリル・キムとフォクシー・ブラウンは、ともに1996年にデビュー作を出し、性や欲望を自分の言葉で語って人気を集める。フォクシーの『Chyna Doll』(1999)は、女性のソロ・ラップ作として初めて初登場1位になった。リル・キムは2001年、クリスティーナ・アギレラらとの「Lady Marmalade」で全米1位に立ち、グラミーも受賞した。
ラフ・ライダーズのイヴは、デビュー作『Let There Be Eve…』(1999)で全米アルバム1位を獲得し、2002年にはグウェン・ステファニーとの「Let Me Blow Ya Mind」でグラミーを受けた。マイアミのトリーナも、2000年のデビュー作でゴールドを記録した。
2010年代以降——トレンドを作る側へ
トリニダード生まれ、クイーンズ育ちのニッキー・ミナージュは『Pink Friday』(2010)でデビューし、2017年にはHot 100に入った曲数でアレサ・フランクリンを抜いて、女性アーティスト最多(当時)になった。カーディ・Bは「Bodak Yellow」(2017)でローリン・ヒル以来となる女性ラッパーのソロ全米1位に立ち、『Invasion of Privacy』で女性のソロとして初めてグラミーの最優秀ラップ・アルバムを獲った。2025年の『Am I the Drama?』も初登場1位で、女性ラッパーとして初めて、最初の2作がともに全米アルバム1位になった。
ヒューストンのミーガン・ジー・スタリオンは、カーディとの「WAP」(2020)で、女性ラップのコラボとして初めて初登場1位を飾った。メンフィスのグロリラは2022年、TikTokで広がった「F.N.F. (Let's Go)」を足がかりに、ヨ・ゴッティ率いるCMGと契約した。ブロンクスのアイス・スパイスも同年、「Munch (Feelin' U)」で頭角を現した。
2025年、タンパのドゥーチー(Doechii)は『Alligator Bites Never Heal』でグラミーの最優秀ラップ・アルバムを獲得した。同部門を獲った女性は、ローリン・ヒル(フージーズ名義)とカーディ・Bに続く3人目だ。ロンドンのリトル・シムズは、自主レーベルの作品『Sometimes I Might Be Introvert』で2022年のマーキュリー賞とブリット・アワードの最優秀新人賞を受けた。
音楽の外側——権利と会社
もう一つの変化がビジネスの席だ。クイーン・ラティファは共同経営者とともに、マネジメントと制作の会社フレイヴァー・ユニットを率いてきた。ミーガンは2024年、ワーナー・ミュージック・グループと配給契約を結びながら、原盤と出版権を手元に残したと報じられている。作る人が権利を握る流れが、ここにも見える。
女性ヒップホップ 10の節目
- 1981Sha-Rock / The Bronx
初の全米テレビ出演
Funky 4 + 1の一員で、最初の女性MCとされる。『SNL』に出演し、ヒップホップのグループとして初めて全国ネットで演奏した。
- 1984Roxanne Shanté / Queens
14歳の返答
「Roxanne's Revenge」はUTFOへの返答曲で、プロデュースはマーリー・マール。数十〜100曲超の返答曲が生まれた。
- 1986Salt-N-Pepa / Queens
初のゴールド&プラチナ
『Hot, Cool & Vicious』が女性ラップ・アクトとして初めてゴールドとプラチナ認定を受けた。「Push It」(1987年発表)は全米トップ20入り。
- 1988MC Lyte / Brooklyn
女性初のソロ・フルアルバム
『Lyte as a Rock』を17歳で発表。1993年の「Ruffneck」は、女性ソロ・ラッパー初のゴールド認定を受けた。
- 1995Queen Latifah / New Jersey
「U.N.I.T.Y.」でグラミー
最優秀ラップ・ソロ・パフォーマンスを受賞。2006年にはハリウッドのウォーク・オブ・フェイムに星を刻み、ヒップホップ・アーティストとして初とされる。
- 1997Missy Elliott / Portsmouth, VA
自分のレーベルから登場
『Supa Dupa Fly』が全米3位で初登場。2019年に女性ラッパー初の作詞作曲家殿堂、2023年に女性ヒップホップ・アーティスト初のロックの殿堂入り。
- 1999Lauryn Hill / New Jersey
グラミー5部門
『The Miseducation of Lauryn Hill』で、年間最優秀アルバムなど5部門を受賞。「Doo Wop (That Thing)」は初登場1位だった。
- 2017Cardi B / The Bronx
「Bodak Yellow」全米1位
ローリン・ヒル以来の女性ラッパーのソロ1位。2019年には『Invasion of Privacy』で、女性ソロとして初めて最優秀ラップ・アルバムを獲得。
- 2020Megan Thee Stallion / Houston
「WAP」初登場1位
カーディ・Bとの「WAP」は女性ラップのコラボとして初の初登場1位で、初週ストリーミングの記録も塗り替えた。2021年にグラミー3部門。
- 2025Doechii / Tampa
最優秀ラップ・アルバム
『Alligator Bites Never Heal』(2024)で受賞。同部門を獲った女性は、フージーズのローリン・ヒル、カーディ・Bに続く3人目。
ビーフとバトル——名指しの曲で殴り合い、観客が勝敗を決める
ヒップホップの喧嘩は、もともと言葉の腕を競う競技だった。ブリッジ戦争から2024年のケンドリック対ドレイクまで、ビーフとMCバトルの歴史と、競技が競技でなくなった日をたどる。
喧嘩が競技になるまで
ヒップホップのビーフ(beef)は、ただの口論ではない。相手を名指しして攻撃する曲をディス・トラックと呼び、受けた側は曲で打ち返す。観客は両方を聴いて、どちらが鋭いかを判定する。黒人コミュニティには、観客の前でけなし合い、言い返せなくなったほうが負けという言葉遊びダズンズ(the dozens)がある。ラップの応酬は、この伝統と並べて語られる。
早い例が1984年。UTFOの「Roxanne, Roxanne」への返答として、当時14歳のロクサーヌ・シャンテが「Roxanne's Revenge」を録音した。ニューヨーク周辺だけで25万枚以上売れ、返答曲が30曲以上続く騒ぎになった。
橋の戦争から、世代間の応酬へ
ヒップホップ史に残る大きな戦いのひとつがブリッジ戦争(Bridge Wars)だ。きっかけは、クイーンズブリッジのMCシャンが出した「The Bridge」(1986)。発祥はクイーンズブリッジだ、と言っているように聞こえる曲だった(本人は否定している)。サウスブロンクスのKRS-One率いるブギ・ダウン・プロダクションズは、「South Bronx」(1986)と「The Bridge Is Over」(1987)で反撃する。手打ちは2007年。KRS-Oneと、MCシャン側のプロデューサーだったマーリー・マールが、共作アルバム『Hip Hop Lives』を出した。
同じ頃、世代間の勝負も起きる。Kool Moe Deeは『How Ya Like Me Now』(1987)で、売り出し中のLL Cool Jを攻撃した。ジャケットには、LLのトレードマークだったカンゴールのバケットハットが、ジープのタイヤに踏み潰されている。LLは1988年の「Jack the Ripper」で言い返し、Moe Deeもまた曲で応じた。
ビーフが「数字」で語られる時代
2000年代に入ると、ビーフはセールスや知名度と一体になる。Jay-Zの「Takeover」(2001)に、Nasは「Ether」(2001)で打ち返した。二人は2005年10月のJay-Zのコンサートで和解を示し、2006年にはNasが、Jay-Zが社長を務めるデフ・ジャムと契約した。2003年には50 Centのデビュー作『Get Rich or Die Tryin'』が初週87万枚超で全米1位になる。収録の「Back Down」はジャ・ルールを狙った曲で、対立の流れは50 Centに傾いた。
2015年にはMeek Millが「Drakeは自分でヴァースを書いていない」と公に主張した。Drakeは「Charged Up」と「Back to Back」で応戦した。二人は2018年に和解している。同じ2018年には、Pusha Tの「Infrared」(5月25日)、同日のDrakeの「Duppy Freestyle」、4日後の「The Story of Adidon」(5月29日)と、数日で応酬が進み、私生活にまで踏み込んだ内容が語り草になった。
そして2024年、Kendrick Lamar対Drake。3月22日、フューチャーとメトロ・ブーミンの「Like That」でのケンドリックのヴァースが引き金になり、4月中旬から5月初めにかけて、両者が短い間隔で曲を出し合った。5月4日の「Not Like Us」は発売直後にHot 100の首位に立ち、2025年2月のグラミー賞では、ノミネートされた5部門のすべてで受賞した。
東と西——競技が現実にのまれた日
ただし、競技の枠が壊れた時期もある。1990年代半ば、ニューヨークのバッド・ボーイ・レコーズと、ロサンゼルスのデス・ロウ・レコーズの対立が、「東海岸対西海岸」という構図で広がった。1995年8月のザ・ソース・アワードで緊張が表に出て、1996年6月には2パックが「Hit 'Em Up」を発表する。同年9月7日、2パックはラスベガスで銃撃され、13日に25歳で亡くなった。翌1997年3月9日には、ノトーリアス・B.I.G.がロサンゼルスで銃撃され、24歳で亡くなった。言葉の競技が現実の暴力と地続きになりうることを、シーンは最悪の形で知った。
マイクを握る競技——MCバトル
ビーフの競技の部分だけを切り出したのがMCバトルだ。2002年の映画『8 Mile』(カーティス・ハンソン監督、主演エミネム)はデトロイトを舞台に即興ラップの対決を描き、主題歌「Lose Yourself」は、ラップ曲として初めてアカデミー賞の歌曲賞(2003年)を受賞した。BETの『106 & Park』のコーナー「Freestyle Friday」では、7週勝ち抜いた挑戦者が殿堂入りする決まりだった。ジン(Jin)は2002年にこれを達成し、ラフ・ライダーズとの契約をつかんだ。
日本では、1999〜2001年のB-BOY PARKのMCバトルでKREVAが3連覇し、2005年にはLibra RecordsがULTIMATE MC BATTLE(UMB)を始めた。R-指定は2012〜14年に3連覇した。2012年7月に『BAZOOKA!!!』の企画として生まれた「高校生RAP選手権」、2015年9月にテレビ朝日で始まった「フリースタイルダンジョン」(ZEEBRAがメインMC)が、バトルを茶の間に届けた。バトルは、ビーフが競技だったころの形を、いまも一番素直に残している。
- 1984UTFO/ロクサーヌ・シャンテ
Roxanne, Roxanne → Roxanne's Revenge
14歳のシャンテが即興で返答し、ニューヨーク周辺で25万枚超。返答曲が30曲以上続いた「ロクサーヌ戦争」の発端。
- 1986–87MCシャン/KRS-One
The Bridge → South Bronx → The Bridge Is Over
ブリッジ戦争。「発祥の地」をめぐる地区同士の応酬で、2007年に共作アルバムで手打ちになった。
- 1987–88Kool Moe Dee/LL Cool J
How Ya Like Me Now → Jack the Ripper
先輩が新人を攻め、新人が曲で返した世代間の勝負。ジャケットのカンゴールが象徴になった。
- 19962パック
Hit 'Em Up
1996年6月発表。「How Do U Want It」のB面で、ノトーリアス・B.I.G.とバッド・ボーイ勢を名指しした。東西対立を決定的に深めた曲とされる。
- 2001Jay-Z/Nas
Takeover → Ether
『The Blueprint』と『Stillmatic』の年に交わされた、ニューヨークの頂上決戦。2005年に和解した。
- 2002カーティス・ハンソン監督
8 Mile
即興ラップのバトルを広く知らしめた映画。主演エミネム、主題歌「Lose Yourself」はアカデミー賞歌曲賞を受賞。
- 200350 Cent/Ja Rule
Back Down
『Get Rich or Die Tryin'』の収録曲。初週87万枚超で全米1位となったアルバムとともに、対立の流れを変えた。
- 2015Drake/Meek Mill
Charged Up/Back to Back
ヴァースの書き手をめぐる主張から始まった。「Back to Back」はHot 100で21位。2018年に和解。
- 2018Pusha T/Drake
Infrared → The Story of Adidon
5月25日から29日のわずか4日間の応酬。「The Story of Adidon」はJay-Zの曲のビートを使い、批評家の評価も高かった。
- 2024Kendrick Lamar/Drake
Like That → Not Like Us
3月22日の「Like That」を発端に、4月中旬から5月初めにかけて曲が立て続けに飛び交った。「Not Like Us」はHot 100首位で、2025年のグラミー賞5部門を受賞。
サンプリング入門——他人のレコードを楽器にする発明
ヒップホップのビートは、古いレコードのたった数秒から作られてきた。ブレイク、チョップ、フリップ、そして「借りるには許可がいる」という現実まで。


ブレイク——曲でいちばん踊れる数秒
ヒップホップは、他人のレコードを楽器にして始まった音楽だ。出発点はブレイク。ファンクやソウルの曲で、歌や上モノが抜けて、ドラムとベースだけになる短い区間をいう。1973年、DJクール・ハークは同じレコードを2枚用意し、ブレイクだけをつなぎ続けて引き延ばした。踊る人たちが一番盛り上がるのが、そこだったからだ。のちには、そうしたレコードを集めた『Ultimate Breaks & Beats』(1986〜91年、全25枚)が出て、プロデューサーたちの教科書になる。
名ブレイクを並べておく。ジェームス・ブラウン「Funky Drummer」(1970)は、クライド・スタブルフィールドのドラムが、パブリック・エナミー「Fight the Power」やLL Cool J「Mama Said Knock You Out」に使われた。ただしスタブルフィールドは作曲者としてクレジットされておらず、使用料は受け取れなかったとされる。ザ・ウィンストンズ「Amen, Brother」(1969)のドラムは、わずか7秒ほど。それでもN.W.A「Straight Outta Compton」に使われ、のちに英国のドラムンベースの土台にもなった。ハニー・ドリッパーズ「Impeach the President」(1973)は、ビーフの章で触れたMCシャン「The Bridge」にも使われている。
切る、貼る、作り変える
この作り方を広げたのが、1987年のE-mu SP-1200と、1988年のAkai MPCだ。SP-1200が録音できるのは約10秒。その短さの中で、長いフレーズを細かく切り、パッドに割り当てて、元とは違う順番で叩き直す。これがチョップだ。切った断片を繰り返すのがループ、元の曲とはまったく別物に作り替えるのがフリップ。この三つがサンプリングの基本の動作になる。
名手の例を挙げる。RZAはウータン・クランの「C.R.E.A.M.」(1993)で、ザ・チャーメルズ「As Long as I've Got You」(1967)の冒頭のピアノとドラムを回し続けた。カニエ・ウェストはJay-Z「Izzo (H.O.V.A.)」(2001)でジャクソン5「I Want You Back」(1969)を使い、自分の「Through the Wire」(2003)ではチャカ・カーンの歌声のピッチを上げて使った。J・ディラはコモン「The Light」(2000)で、ボビー・コールドウェル「Open Your Eyes」(1980)を滑らかに回している。ディラはMPC3000のクオンタイズ(拍に自動で揃える機能)を切って叩いたとされ、あの少しよれたグルーヴが生まれた。2006年2月7日に『Donuts』を出し、3日後の10日、32歳で亡くなった。
借りるには許可がいる
自由に借りられた時代は、長くは続かなかった。1991年12月、ニューヨークの連邦地裁は、ビズ・マーキーがギルバート・オサリバン「Alone Again (Naturally)」(1972)を無断で使ったとして、レコード会社に不利な判断を下した。判事は、聖書の「汝、盗むなかれ」という言葉から判決を書き起こし、曲はビズのアルバム『I Need a Haircut』から外された。以後、サンプルの使用許可(クリアランス)の費用は膨らみ、パブリック・エナミーのように数十のサンプルを重ねる作り方は、経済的に難しくなったとされる。
権利は二層ある。録音そのもの(マスター)と、曲(作詞作曲)だ。サンプリングでは両方の許可がいる。これに対し、元のフレーズを自分たちで演奏し直すインターポレーションなら、曲の権利だけで済む。1979年の「Rapper's Delight」が、シックの「Good Times」のベースラインを演奏し直して使ったのが、古い例だ。のちにシックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズは作曲者としてクレジットされた。2005年には米国の控訴裁判所(第6巡回区)が、ごく短いサンプルでも許可が要ると判断したが、他の地域の裁判所では異なる判断も出ている。
サンプル・ドリル——いま起きていること
2020年代の初め、ニューヨークのブロンクスからサンプル・ドリルが広がった。ドリルの重いビートの上に、R&Bやポップの誰でも知っている曲を乗せるスタイルだ。B-Loveeの「My Everything」は、メアリー・J・ブライジの「Everything」を使っている。耳なじみのある旋律は、SNSで一気に広まる。一方で、権利処理が追いついていない例も少なくないとされる。道具は変わっても、「誰かの音を自分の曲にする」という発明は、1973年のブロンクスから止まっていない。
- 1967The Charmels
As Long as I've Got You
ウータン・クラン「C.R.E.A.M.」(1993)。RZAが冒頭のピアノとドラムを回し続けた。
- 1969The Winstons
Amen, Brother
N.W.A「Straight Outta Compton」ほか。約7秒のドラム・ソロは、英国のドラムンベースの土台にもなった。
- 1969The Jackson 5
I Want You Back
Jay-Z「Izzo (H.O.V.A.)」(2001)。プロデュースはカニエ・ウェスト。
- 1970James Brown
Funky Drummer
パブリック・エナミー「Fight the Power」(1989)、LL Cool J「Mama Said Knock You Out」(1990)。ドラムはクライド・スタブルフィールド。
- 1972Lyn Collins
Think (About It)
ロブ・ベース&DJ E-Z・ロック「It Takes Two」(1988)、カニエ・ウェスト「Lost in the World」(2010)。
- 1973The Honey Drippers
Impeach the President
MCシャン「The Bridge」(1986)、オーディオ・ツー「Top Billin'」(1987)、Nas「I Can」(2002)。
- 1973Incredible Bongo Band
Apache
Nas「Made You Look」(2002)。ミッシー・エリオット「We Run This」(2006)が使ったのは、シュガーヒル・ギャングによるカバー版(1981)。クール・ハークが「ヒップホップの国歌」と呼んだとされる。
- 1973Melvin Bliss
Synthetic Substitution
ウルトラマグネティックMC's「Ego Trippin'」(1986)で火がつき、ノーティ・バイ・ネイチャー「O.P.P.」(1991)、ウータン・クラン「Bring da Ruckus」(1993)へ。
- 1979Chic
Good Times
シュガーヒル・ギャング「Rapper's Delight」(1979)。演奏し直して使うインターポレーションの古い例で、のちにシックの二人がクレジットされた。
- 1980Bobby Caldwell
Open Your Eyes
コモン「The Light」(2000)。J・ディラが手がけ、コモン初のHot 100入りシングルになった。
服、靴、映画——ヒップホップは見た目とスクリーンでも広がった
Run-DMCのアディダスから、ルイ・ヴィトンの席に座るファレルまで。着こなしと映像が、音楽の外側からヒップホップを世界に運んだ。
ステージの足元から始まった
ヒップホップの服装は、最初から音楽と一体だった。Run-DMCは1986年に「My Adidas」を出し、同年7月のマディソン・スクエア・ガーデン公演で、観客がアディダスを掲げる光景が契約につながった。音楽アーティストとスポーツブランドの大型契約の先駆けとされる。
そこから、作業着やスポーツ用品が次々と「街の制服」になっていく。英国発祥の帽子カンゴールは、LL Cool Jのバケットハットで象徴的な存在になった。1973年に作業用として売り出されたティンバーランドのイエロー・ブーツは、ウータン・クラン、モブ・ディープ、Nas、2パック、ノトーリアス・B.I.G.らが曲や映像に登場させ、「ブーツ界のエア・ジョーダン」とも呼ばれた。スニーカーでは、1982年にブルース・キルゴアが設計したエア・フォース1がハーレムで「アップタウンズ」と呼ばれて愛され、2002年にネリーが曲にした。1985年発売のエア・ジョーダン1も、ラッパーたちの足元を通じて定番になっていく。ブルックリンでは、1988年に結成されたクルーロー・ライフスが、ポロ・ラルフ ローレンの着こなしで知られる。
ハーレムの仕立て屋
ダッパー・ダンは、1982年にハーレムの125丁目で店を開いた。ルイ・ヴィトンやグッチ、フェンディのロゴを、自ら開発した生地やレザーのプリントで再構成し、特注のジャケットに仕立てる。客にはマイク・タイソン、LL Cool J、エリックB&ラキム、ソルト・ン・ペパ、Jay-Zらがいた。店はブランド側の法的措置を受けて1992年に閉じたが、2017年にグッチが彼の作品を想起させるジャケットを発表して批判を浴び、2018年にはグッチと組んだ店をハーレムに開いた。ブランドの外にいた人間が、ブランドの意匠をストリートの着こなしに変えた先駆けだ。
歯に被せる金属の装飾グリルも、1980年代のニューヨークで広まった。作り手のエディ・プレインの最初の有名な客がジャスト・アイスで、1987年のアルバム・ジャケットで金歯を見せている。90年代に南部で定着し、2005年にはネリーの「Grillz」(ポール・ウォールら参加)が全米に広めた。
ストリートが高級ブランドを動かす
流れは逆向きにもなった。日本のNIGOが1993年に始めたA BATHING APE(BAPE)は、2000年代にファレル・ウィリアムスと組んでBillionaire Boys ClubやIce Creamを立ち上げ、世界のストリートに広がった。NIGOは2021年にKENZOのアーティスティック・ディレクターにも就いた。ヴァージル・アブローは2013年にオフ-ホワイトを立ち上げ、2018年にルイ・ヴィトンのメンズ部門の芸術監督になる。アフリカ系の人物としては初めてとされる。2021年11月28日、41歳で亡くなった。後任には2023年2月14日、ファレルが発表され、同年6月のパリ・メンズ・ファッション・ウィークで最初のコレクションを見せた。ラッパー自身がブランドを興す動きも続き、ウータン・クランのWu-Wear、Jay-ZのRocawear、ディディのSean Johnなどが生まれた。
スクリーンの中のヒップホップ
映像は、映画から入るのが早い。1983年の『Wild Style』(チャーリー・エイハーン監督)は「最初のヒップホップ映画」と呼ばれ、PBSで放送された記録映画『Style Wars』(1983年製作)は、グラフィティの書き手たちを追った。『Beat Street』(1984)と、デフ・ジャムの初期を描いた『Krush Groove』(1985)が続く。1989年、スパイク・リーの『Do the Right Thing』は、ブルックリンの猛暑の一日を舞台に、Public Enemyの「Fight the Power」を鳴らした。
1990年代は、ロサンゼルスとハーレムの現実が映画になる。『Boyz n the Hood』(1991)で、ジョン・シングルトンは史上最年少、かつアフリカ系として初のアカデミー監督賞ノミネートを受けた。『Juice』(1992)は2パックの俳優デビュー作、『Menace II Society』(1993)はヒューズ兄弟の監督デビュー作だ。一方で、アイス・キューブが脚本を書いた『Friday』(1995)のように、同じ街を笑いで描く作品も生まれた。
2000年代以降は、音楽の成功譚が増える。『8 Mile』(2002)はエミネム主演、「Lose Yourself」で歌曲賞。『Hustle & Flow』(2005)ではスリー・シックス・マフィアの曲が、ヒップホップ曲として2曲目の歌曲賞を獲った。『Straight Outta Compton』(2015)はN.W.Aの伝記映画で、世界で約2億ドルを稼いだ。テレビでは、ドナルド・グローヴァーが制作・主演したFXの『Atlanta』(2016〜22)が、2017年のエミー賞で主演男優賞と監督賞(コメディ部門)を獲得している。日本では、入江悠監督の『SR サイタマノラッパー』(2009)が、地方都市でラップを夢みる若者たちを描いた。
- 1983チャーリー・エイハーン監督
Wild Style
ブロンクスのグラフィティ・ライターが主人公で、グランドマスター・フラッシュらが出演。Nasやア・トライブ・コールド・クエストが、この映画の音をサンプリングしている。
- 1983トニー・シルバー、ヘンリー・シャルファント監督
Style Wars
1980年代前半のニューヨークで、グラフィティの書き手とブレイクダンサーを追った記録映画。1984年のサンダンス映画祭でドキュメンタリー部門の審査員大賞。
- 1989スパイク・リー監督
Do the Right Thing
ブルックリンの猛暑の一日。主題曲はPublic Enemyの「Fight the Power」で、アカデミー賞の脚本賞と助演男優賞にノミネート。
- 1991ジョン・シングルトン監督
Boyz n the Hood
サウス・セントラルで育つ若者たちの物語。アイス・キューブも出演。シングルトンは史上最年少、かつアフリカ系初の監督賞ノミネート。
- 1992アーネスト・R・ディッカーソン監督
Juice
ハーレムの十代4人組の転落。DJを夢みる少年を軸に、2パックが俳優デビューした。
- 1995F・ゲイリー・グレイ監督
Friday
アイス・キューブとDJプーが脚本を書いた、サウス・セントラルのある一日のコメディ。クリス・タッカーも出演。
- 2002カーティス・ハンソン監督
8 Mile
デトロイトで成り上がりを目指すラッパーをエミネムが演じた。バトルの場面と、アカデミー賞歌曲賞の「Lose Yourself」。
- 2005クレイグ・ブリュワー監督
Hustle & Flow
メンフィスの男がラップで人生を変えようとする。テレンス・ハワードが主演男優賞にノミネートされ、スリー・シックス・マフィアが歌曲賞。
- 2015F・ゲイリー・グレイ監督
Straight Outta Compton
N.W.Aの伝記映画。アイス・キューブとドクター・ドレーが製作に加わり、世界興収は約2億ドル。脚本賞にノミネート。
- 2016ドナルド・グローヴァー制作・主演
Atlanta
FXのドラマ(全4シーズン、2016〜22)。売り出し中のラッパーとマネージャーを軸に、アトランタの日常を描く。2017年のエミー賞を2部門で受賞。
ブロンクスの遊びは、世界中の言葉で鳴り出した
ロンドンのグライム、パリのラップ・フランセ、ソウルのK-HIPHOP、リオ、ラゴス、そして東京。どの街も、自分の言葉と自分のビートでヒップホップを作り替えてきた。



ヒップホップは、1980年代のうちにはもうアメリカ国外へ出ていた。映画『Wild Style』や『Beat Street』の上映、ブレイキングのブーム、そしてレコード。最初に起きたのは「真似」だったが、やがて各国のMCが自国の言葉と街の暮らしでラップを書きはじめる。ヒップホップの本質は、場所を選ばない「作り方」にあるから、どの街でも、その街のスラングがそのまま武器になった。
ロンドンでは、レゲエのサウンドシステム文化とジャングルが混ざって2000年代前半にグライムが生まれ、のちにUKドリルが続いた。パリではMC SolaarやIAMが、フランス語のライムの可能性を示した。ソウルではEpik Highが、のちに世界的な「K-HIPHOP」の土台を築いた。ブラジルではRacionais MC'sがファヴェーラの現実を語り、ラテン圏ではトラップとレゲトンが混ざって、Bad Bunnyのようなスペイン語のまま世界のチャートを制する存在が現れた。
そして日本。次の章では、輸入から独自進化へ進んだ日本語ラップの歩みを辿る。岩手の夜に鳴っているビートも、実はこの長い連なりの末端にある。


































輸入から独自進化へ——日本のヒップホップ小史
日本語でどう韻を踏むか。その試行錯誤が40年続いて、いま世界のチャートに届いている。



日本のヒップホップは、1980年代にニューヨークのレコードや映画『Wild Style』『Style Wars』を通じて入ってきた。いとうせいこう、近田春夫、藤原ヒロシ、高木完といった人たちが、日本語でラップをする方法を手探りで始める。最初の課題は単純で、そして難しかった。日本語は、英語のように強弱では韻を踏みにくい。母音の響きで合わせる「日本語ラップ」の作法は、ここから少しずつ形になっていく。
1990年代に入ると、スチャダラパーが「ゆるく、でも本気」の日本語ラップを提示する。1994年、小沢健二とのコラボ曲「今夜はブギー・バック」は、クラブにもお茶の間にも広がった。1995年にはキングギドラの『空からの力』が、硬派な日本語ラップの到達点としてシーンに衝撃を与え。RHYMESTER(1993年デビュー)やブッダ・ブランドらと並んで、日本語ラップは一気に層を厚くしていく。1999年のDragon Ash「Grateful Days」は、ヒップホップを日本中のヒットチャートに連れ出した。
2000年代は、Rip Slyme(「楽園ベイベー」2002)、Kick the Can Crew、そしてKREVAがポップスの舞台でヒップホップを鳴らし、同時に地方都市に根づく無数のクルーが各地でイベントを開いた。ヌジャベスのジャズ・ヒップホップは、アニメ『サムライチャンプルー』の音楽とともに世界のリスナーを増やしていく。
2010年代の転機は、MCバトルだった。2012年からの「高校生RAP選手権」、そして2015年9月にテレビ朝日で始まった「フリースタイルダンジョン」(ZEEBRA率いる)が、即興でラップする対決を一気に茶の間の娯楽にした。R-指定(Creepy Nuts)、般若、サイプレス上野ら、バトルの猛者がスターになり、若い世代が一斉にマイクを握りはじめる。同時にKOHHのような孤高の存在や、川崎のBAD HOPなど、日本語のトラップで独自の世界観を描くアーティストが現れた。
そして2024年。Creepy Nutsの「Bling-Bang-Bang-Born」が、アニメ『マッシュル』のオープニングとTikTokを通じて世界的な大ヒットになり、Billboard Global 200で最高8位、国内のBillboard JAPAN Hot 100では19週にわたって1位に輝いた。日本語のラップが、日本語のまま世界の耳に届いた。かつての「輸入」の関係が、確実に変わった瞬間だ。
そして岩手にも、確かな熱源がある。盛岡や花巻で、マイクを握り、トラックを作る人たちが、いまも夜のフロアをつくっている。岩手のヒップホップ・アーティストの紹介はトップページ「HIP-HOP」へ。マガジンISSUE 05「岩手のヒップホップ、その熱源」もあわせてどうぞ。













ヒップホップ用語集——記事も歌詞も、これで読める32語
ブレイクからグライムまで。記事や歌詞カードでよく出てくる言葉を、1〜2文で押さえる。
ヒップホップの記事やクレジットを読んでいると、聞き慣れない言葉が次々に出てくる。英語の略語や隠語、機材の名前、ジャンルの呼び名。意味を知らないまま読み飛ばすと、せっかくの面白い話が半分しか入ってこない。ここに並べたのは、音の作り方、ラップの技、曲の呼び方、ジャンル名、文化の用語の順に、よく出る32語だ。英語の記事をそのまま読むときの助けにもなる。全部を覚える必要はない。引っかかった言葉が出てきたら、ここに戻ってくればいい。
- ブレイク Break
- ファンクやソウルの曲で、ドラムとベースだけになる短い区間。DJは2枚のレコードでここを引き延ばし、踊る人に差し出した。
- ブレイクビーツ Breakbeat
- ブレイクから切り出したドラム中心のビート素材。それを使って組んだリズム自体も、こう呼ぶ。
- サンプリング Sample
- 既存のレコードの一部を取り込み、別の曲の素材にすること。取り込んだ音そのものも「サンプル」、それを繰り返して使うのが「ループ」だ。
- チョップ Chop
- サンプルを細かく切り、パッドに割り当て、元とは違う順番で叩き直す技。
- フリップ Flip
- 元ネタの曲を、まったく別の曲に作り替えること。ネタをどう変えたかが、トラックメイカーの腕の見せどころになる。
- クレイト・ディギング Crate digging
- 中古レコード店や古い箱の山を探って、ネタになるレコードを掘り出すこと。熱心な人は「ディガー」と呼ばれる。
- サイファー Cypher
- 輪になってマイクを回し、順番にラップを披露する場。競うというより、技を見せ合う場として語られる。
- フリースタイル Freestyle
- 書いた歌詞ではなく、その場で即興で作って歌うラップ。広くは、曲の枠を離れて自由に披露するラップを指す。
- フロウ Flow
- ビートに言葉をどう乗せるか、その抑揚・間・リズムの付け方。同じ歌詞でも、フロウが違えば別の曲に聞こえる。
- バース/バー Verse / Bars
- バースはラップのひとまとまりで、多くは16小節。その小節を「バー」と数え、転じて「バーが良い」は歌詞の出来がいいことを言う。
- パンチライン Punchline
- 言葉遊びや意外な切り返しで、聴き手をハッとさせたり笑わせたりする決めの一行。
- フック Hook
- 曲の「サビ」にあたる、繰り返される印象的なフレーズ。耳に引っかかる(hook)ことが名前の由来だ。
- アドリブ Ad-lib
- ラップの合間に入れる合いの手や掛け声。「Yeah」「Skrrt」のような短い声で、曲に勢いを足す。
- フィーチャリング Feature
- ほかのアーティストが客演で参加すること。曲名に「feat.」と付き、ヒップホップでは「フィーチャー」と略されることもある。
- ミックステープ Mixtape
- もとはDJが編集して出回らせたカセット。今は、正式なアルバムとは別に、ラッパーが無料配信などで出す作品を指すことが多い。
- ディス・トラック Diss track
- 特定の相手を名指しして批判する曲。「ディス」はdisrespect(軽んじる)の略で、返す曲を「アンサー」と呼ぶ。
- コサイン Cosign
- 知名度のあるアーティストが、新人や別のアーティストを公に認めて後押しすること。客演や名前を出すことでも示される。
- 808 TR-808
- ローランドのドラムマシン(1980年発売)。長く伸びる低音のキックがヒップホップの骨格になり、その低音そのものも「808」と呼ばれる。
- ハイハット・ロール Hi-hat roll
- ハイハットを1拍の中で細かく連打し、速さや音程を変えて転がす手法。トラップの特徴のひとつ。
- ダブルタイム Double time
- ビートの速さは変えずに、ラップの刻みを倍の細かさにして畳みかけるフロウ。
- 三連フロウ Triplet flow
- 1拍を3つに割って言葉を詰め込むフロウ。Migosの「Versace」(2013)が代表例とされる。
- オートチューン Auto-Tune
- 音程を自動補正するソフト(1997年発売)。極端にかけて声を楽器のように加工する使い方が、T-Painや、カニエ・ウェストの『808s & Heartbreak』(2008)などで広まった。
- チョップド&スクリュード Chopped & screwed
- 曲のテンポを大きく落とし、飛ばしたりスクラッチしたりする加工。1990年代前半、ヒューストンのDJスクリューが広めた。
- クランク Crunk
- メンフィスとアトランタで育った、掛け声と重低音で煽るパーティー向けのサウンド。リル・ジョン「Get Low」(2003)で全国に知られた。
- トラップ Trap
- アトランタの隠語(麻薬を売る場所)が語源の、808とハイハット・ロールが軸の南部発サウンド。2010年代に世界の主流になった。
- ドリル Drill
- 2010年代初頭のシカゴで生まれた、トラップを土台に暗く直接的な歌詞を淡々と乗せるスタイル。チーフ・キーフ「I Don't Like」(2012)で広まり、のちにロンドンやブルックリンにも広がった。
- マンブル・ラップ Mumble rap
- 言葉の明瞭さより、メロディや雰囲気を重んじるスタイルを指す呼び名。もとは批判的に使われた言葉で、定義は曖昧だ。
- ブームバップ Boom bap
- キックの「ブーン」とスネアの「バップ」から。サンプルのドラムを切り出した、1990年代ニューヨークの硬いビートを指す。
- Gファンク G-funk
- Dr.ドレー『The Chronic』(1992)で広まった西海岸のサウンド。Pファンクのサンプル、高音のシンセ、90〜100BPMのゆったりしたグルーヴが特徴。
- グライム Grime
- 2000年代初頭のロンドン東部で生まれた、約140BPMの電子的なビートに乗るラップ。ディジー・ラスカル『Boy in da Corner』(2003)がマーキュリー賞を受賞した。
- Bボーイ/Bガール B-boy / B-girl
- ブレイクダンスをする人。クール・ハークが自分のパーティーで踊る人たちをこう呼んだのが始まりとされる。2024年のパリ五輪で、ブレイキングは正式競技になった。
- タグ/ピース Tag / Piece
- グラフィティの用語。タグは自分の名前を素早く書くサイン、ピースは時間をかけて描く本格的な作品を指す。
Here
どこから聴く? 年代順・必聴アルバム
全部は聴けない。だから、ここまでの話に出てきた名前から、一枚ずつ。気になった年代から、上から順に潰していけば、ヒップホップの地図がだいたい頭に入る。
- 1987Eric B. & Rakim
Paid in Full
ラップを「語り」から「芸術」へ。ラキムの落ち着いた声が、すべてのMCの基準になった。
- 1988Public Enemy
It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back
ボム・スクワッドの轟音と、チャックDの怒り。政治と音圧が衝突する名盤。
- 1988N.W.A
Straight Outta Compton
ギャングスタ・ラップを全米に広めた転換点。街の言葉をそのまま鳴らした衝撃作。
- 1991A Tribe Called Quest
The Low End Theory
ジャズのベースとサンプルの理想形。ブームバップの「軽やかな知性」を知るならここ。
- 1992Dr. Dre
The Chronic
Gファンクの完成形。スヌープが世に出た一枚でもある。西海岸の入口。
- 1993Wu-Tang Clan
Enter the Wu-Tang (36 Chambers)
荒削りなRZAのビートと、9人のMCの競演。ニューヨークの逆襲の号砲。
- 1994Nas
Illmatic
10曲、約40分。ブームバップの「最高傑作」候補として、まず名前が挙がる一枚。
- 1994The Notorious B.I.G.
Ready to Die
低くて甘い声のストーリーテリング。成り上がりと影を同じ重みで描く。
- 1995Mobb Deep
The Infamous
冷たく不穏なループ。ニューヨークの暗部を、最短距離で伝える。
- 1995-962Pac
Me Against the World / All Eyez on Me
内省の『Me Against the World』と、豪華な2枚組。同じ人物の二つの顔を並べて聴く。
- 1996Jay-Z
Reasonable Doubt
デビュー作にして、のちの帝王の原点。クールで知的なハスラー・ラップ。
- 1998OutKast
Aquemini
南部の誇りと、サイケで自由な発想。アトランタが世界の舞台に立った一枚。
- 1998Lauryn Hill
The Miseducation of Lauryn Hill
ラップとソウルを一つの声で。時代を超えて聴かれ続ける、唯一無二の傑作。
- 2000Eminem
The Marshall Mathers LP
毒と笑いと告白。超高速のライムと物語の巧みさは、いま聴いても圧倒される。
- 2004Kanye West
The College Dropout
チップマンク・ソウルの温かい質感。ラップに「弱さ」を持ち込んだデビュー作。
- 2004Madvillain
Madvillainy
MFドゥーム×マッドリブ。ざらついたループと奇想の言葉遊び。アンダーグラウンドの金字塔。
- 2006J Dilla
Donuts
「揺れるドラム」の教科書。ローファイ・ヒップホップの原点のひとつ。
- 2008Lil Wayne
Tha Carter III
初週100万枚超。ミックステープ時代の勢いを持ち込み、2008年の全米年間売上1位に。
- 2011Drake
Take Care
ラップと歌、不安と余裕。ストリーミング時代のムード・ミュージックの原型。
- 2012Kendrick Lamar
good kid, m.A.A.d city
少年の一日を映画のように描いた、コンセプト・アルバムの傑作。
- 2015Kendrick Lamar
To Pimp a Butterfly
ジャズとファンクと詩。黒人の歴史と自己嫌悪に向き合った、大作。
- 2015Future
DS2
トラップが、孤独と享楽の音楽として完成した一枚。808とオートチューンの教科書。
- 2017Migos
Culture
三連のフロウとアドリブで、「ノリ」でラップが成立することを証明した。
- 2017Lil Uzi Vert
Luv Is Rage 2
ロックとエモをトラップに溶かした、「XO Tour Llif3」収録のブレイク作。
- 2017Kendrick Lamar
DAMN.
ピューリッツァー賞に選ばれた一枚。フックの強さと内省の深さが両立している。
- 2018Travis Scott
Astroworld
ビートが何度も切り替わる、遊園地のようなトラップ大作。現在の「アルバムの作り方」の見本。
気に入った曲が見つかったら、次は「元ネタ」を追うのがヒップホップの最高の遊びだ。サンプリングの元ネタを調べられる「WhoSampled」のようなサイトを使うと、ナズのビートがジャズの名曲に、ケンドリックの一曲がファンクのレコードに、すっとつながる。聴いたことのなかった60〜70年代のソウルやジャズが、ヒップホップを入口にして手に入る。
映像で歴史を追うなら、ドキュメンタリーが入口になる。ヒップホップ誕生の現場を撮った映画『Style Wars』(1983)と『Wild Style』(1983)、クラシックから現代までを当事者の証言で辿るシリーズ『Hip-Hop Evolution』、ア・トライブ・コールド・クエストの軌跡を追う『Beats, Rhymes & Life』(2011)、N.W.Aを描いた映画『Straight Outta Compton』(2015)。どれも、音を聴くだけでは分からない「その時代の空気」を教えてくれる。
- 『Style Wars』(1983) ニューヨークの地下鉄グラフィティと、ブレイキングの熱気を記録したドキュメンタリー。
- 『Wild Style』(1983) 初期ヒップホップの四つの要素をまとめて映した、最初期の劇映画。
- 『Hip-Hop Evolution』(2016〜) 当事者へのインタビューで、ヒップホップの歴史をたどるシリーズ。
- 『Beats, Rhymes & Life』(2011) ア・トライブ・コールド・クエストの絆と衝突を描いた作品。
音は、現場でいちばん鳴る。
ここまで読んで気になった曲があれば、次は盛岡の夜へ。HIP-HOPの夜も、レゲエの夜も、今月のカレンダーにまとまっています。岩手のヒップホップ・アーティストの紹介もトップページから。
画像・動画のクレジットについて
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- DJクール・ハーク (2009年撮影) — Bigtimepeace (Wikimedia Commons user) / Public domain
- グランドマスター・フラッシュ (2014年撮影) — Victor Frankowski / Southbank Centre / CC BY 2.0
- Run-DMC (1984年12月・ロングビーチ) — Ian Dryden, Los Angeles Times / CC BY 4.0
- LL・クール・J (2017年撮影) — U.S. State Department / Public domain
- パブリック・エナミー (2014年・チャックD(左)とフレイヴァー・フレイヴ) — kowarski / CC BY 2.0
- ラキム (2008年撮影) — Flowizm / CC BY 2.0
- KRS・ワン (2009年撮影) — Luigi / CC BY 2.0
- スリック・リック (2009年撮影) — Brett Hammond / CC BY 2.0
- アイス・キューブ (2012年撮影) — Eva Rinaldi / CC BY-SA 2.0
- ドクター・ドレー (2012年撮影) — Jason Persse / CC BY-SA 2.0
- スヌープ・ドッグ (2023年撮影) — Bruce Baker / CC BY 2.0
- ナズ (Nas) (2022年撮影) — All-Pro Reels / CC BY-SA 2.0
- ウータン・クラン (2007年撮影) — Napalm filled tires / CC BY-SA 2.0
- メソッド・マン (2010年4月撮影) — Alyssa Tomfohrde from Oakland, USA / CC BY 2.0
- ジェイ・Z (2008年撮影) — Mike Barry from Wirral, England / CC BY 2.0
- アウトキャスト (2014年撮影) — David Shankbone / CC BY 3.0
- ローリン・ヒル (2014年撮影) — The Come Up Show from Canada / CC BY 2.0
- ミッシー・エリオット (2006年撮影) — Romana Pierzga / CC BY-SA 2.0
- エミネム (2014年11月、ワシントンD.C.の「コンサート・フォー・ヴァラー」にて) — DoD News Features (U.S. Department of Defense) / Public domain
- 50セント (2009年11月、パリ) — Nicolas Richoffer / CC BY-SA 4.0
- カニエ・ウェスト (2008年8月、ライブでのパフォーマンス) — jurvetson / CC BY 2.0
- リル・ウェイン (2006年撮影のモノクロ写真) — RJ Shaughnessy (RJ) / Public domain
- T.I. (2014年11月、Paperworkツアーでのライブ) — Eddy James Rissling / CC BY 2.0
- ドレイク (2010年9月、ライブでのパフォーマンス) — musicisentropy / CC BY-SA 2.0
- ケンドリック・ラマー (2016年7月、スペインの音楽フェスF.I.B.でのライブ) — Batiste Safont / CC BY-SA 4.0
- フューチャー (2016年、サマー・シックスティーン・ツアー) — The Come Up Show / CC BY 4.0
- トラヴィス・スコット (2016年2月、ライブ) — Brandon Dull / CC BY 2.0
- リル・ウージー・ヴァート (2017年8月、Day N Night Festival) — Frank Morales / CC BY-SA 4.0
- カーディ・B (2026年7月、Essence Festival of Culture) — Runawaymo / CC BY-SA 4.0
- ミーガン・ジー・スタリオン (2022年9月、ミュンヘンのSuperbloomフェス) — Valerie Albert / CC BY-SA 4.0
- リル・ベイビー (2019年7月、スイスのOpenair Frauenfeldでのライブ) — Frank Schwichtenberg / CC BY-SA 4.0
- プレイボーイ・カーティ (2016年11月、ライブ) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- NBAヤングボーイ (2023年、インタビュー動画より) — Million Dollaz Worth of Game / CC BY 3.0
- ミーゴス (クエイヴォ、テイクオフ、オフセットの3人/2017年8月、トロントのVeld Music Festival) — The Come Up Show (Charito Yap) / CC BY 2.0
- ジュース・ワールド (2019年5月、プリークネス・ステークス併催のInField Fest) — Andy Jones / CC BY-SA 2.0
- ヤング・サグ (2019年7月、スイスのOpenair Frauenfeldでのライブ) — Frank Schwichtenberg / CC BY-SA 4.0
- 1520 Sedgwick Avenue (2009年撮影) — Bigtimepeace (Wikimedia Commons user) / Public domain
- ブレイキング (2017年撮影) — Muhammed amine benloulou / CC BY-SA 4.0
- グラフィティ (1973年・NY地下鉄) — Erik Calonius (EPA DOCUMERICA project; US National Archives) / Public domain
- Technics SL-1200 (2006年撮影) — Adrian DuMay from USA / CC BY 2.0
- ブームボックス (ビンテージのラジカセ) — Free Photo Fun / CC BY 2.0
- レコード・ディギング (2016年・ロンドン) — Artificial Photography (Unsplash: @artificialphotography) / CC0
- アフリカ・バンバータ (2009年撮影・奥でDJをしているのは別の人物) — docmonstereyes from USA / CC BY 2.0
- グランドマスター・メリー・メル (2010年1月、ニューヨークのCanal Roomでのライブ) — Samantha Lauren (derivative work: Gobonobo) / CC BY 2.0
- シュガーヒル・ギャング (2015年、英シェフィールドのトラムラインズ・フェスティバル) — Tramlines Festival / CC BY 2.0
- カーティス・ブロウ (2015年、アート・オブ・ラップ・フェスで) — Moe N Reed / CC BY-SA 4.0
- グランド・ウィザード・セオドア (2002年、米シアトルでのDJプレイ) — Flintmi (Flintmichigan) / CC BY 3.0
- コールド・クラッシュ・ブラザーズ (1980年代初頭とみられるグループ写真) — Easy AD / CC BY-SA 3.0
- ファブ・ファイブ・フレディ (2009年トライベッカ映画祭) — David Shankbone / CC BY 3.0
- ビースティ・ボーイズ (1992年・川崎クラブチッタ) — Masao Nakagami / CC BY-SA 2.0
- ビッグ・ダディ・ケイン (2013年撮影) — RustyShack / CC BY 2.0
- ダグ・E・フレッシュ (2010年、ニューヨーク・ブルックリンでの公演) — Jason Persse from Brooklyn, USA / CC BY-SA 2.0
- ビズ・マーキー (2016年、ニューヨークでのジュース・クルー再結成公演) — fuseboxradio (Flickr) / CC BY-SA 2.5
- マーリー・マール (1999年、英ノッティンガング) — MikaV (Mika Väisänen) / CC BY-SA 4.0
- ロクサーヌ・シャンテ (2016年、ニューヨークのジュース・クルー再結成公演) — fuseboxradio (Flickr) / CC BY-SA 2.0
- ソルト・ン・ペパ (2013年、オーストラリア・キャンベラでの公演) — David Burke / CC BY 2.0
- MCライト (1999年、ドイツ・ハンブルク) — Mika Väisänen (Mikamote) / CC BY-SA 3.0
- クイーン・ラティファ (2023年、ケネディ・センター名誉賞の関連夕食会で) — Freddie Everett / U.S. Department of State / Public domain
- アイス・T (2019年撮影) — Sven Mandel / CC BY-SA 4.0
- スクーリーD (2012年、米シカゴ・ハウス・オブ・ブルース) — swimfinfan / CC BY-SA 2.0
- イージー・E (1993年、ロサンゼルス市警の訪問時のスナップ。右は警察官のエドワード・レイエス) — Edward Reyes / CC BY 2.0
- N.W.AのMCレン (1990年、ロサンゼルスで撮影) — Ithaka Darin Pappas / CC BY-SA 4.0
- トゥー・ショート (2023年、米フロリダ州ウェストパームビーチでの公演) — Rickmunroe01 / CC BY-SA 4.0
- ルーサー・キャンベル (ルーク)。マイアミの2ライヴ・クルーを率いた(2017年撮影) — David Cabrera / CC BY-SA 4.0
- デ・ラ・ソウル (2004年撮影) — Matti Hillig / CC BY-SA 3.0
- ジャングル・ブラザーズ (1999年、ドイツ・ハンブルクの楽屋) — Mika Väisänen (Mikamote) / CC BY-SA 3.0
- DJジャジー・ジェフ (2011年、米テキサス州ダラスでのDJ) — Dopefish / Public domain
- ホーディニのエクスタシー(右)とフレイヴァー・フレイヴ(左)。2009年フレッシュ・フェスト — Brett Hammond / CC BY 2.0
- EPMD (2013年7月、ブルックリン・ヒップホップ・フェスティバルでのステージ) — Simon Abrams from Brooklyn, USA / CC BY-SA 2.0
- クール・G・ラップ (2006年撮影) — Kanamedia from Tokyo, Japan / CC BY-SA 2.5
- ウルトラマグネティックMC's (2011年、ATP/I'll Be Your Mirrorフェスにて) — Jason Persse / CC BY-SA 2.0
- ロブ・ベース&DJ E-Zロック (2006年、トロントのクラブにて) — Mick Tobyn / CC BY-SA 2.0
- ダディ・O (ステッツァソニックのメンバー、2010年アトランタにて撮影) — WeLove1990 / CC BY-SA 3.0
- トーン・ロック (2023年、ヒューストンの90'sイベントにて) — 2C2K Photography / CC BY 2.0
- ヤングMC (2021年撮影) — Super Festivals / CC BY 2.0
- キッド・アンド・プレイ (2010年、トライベッカ映画祭にて) — David Shankbone / CC BY 3.0
- ワールド・クラス・レッキン・クルーのDJイエラ (2019年撮影) — Don Bigileone / CC BY 2.0
- クワメ (2014年、ニューヨーク・コミコンにて) — Luigi Novi / CC BY 3.0
- ノトーリアス・B.I.G. (ブルックリンの壁画を撮影(2024年)) — whatsdownthatstreet (Flickr user; requested attribution to w / CC BY-SA 2.0
- 2パック (2Pac) (リオの壁のグラフィティを撮影(2010年)) — marycsalome / CC BY 2.0
- RZA (2009年10月、ニューヨークで開かれた『The Tao of Wu』の朗読イベントにて) — David Shankbone / CC BY 3.0
- GZA (2008年6月、ニューヨークのPaid Duesフェスティバル) — Flowizm / CC BY 2.0
- レイクウォン (2010年7月、ピッチフォーク・ミュージック・フェスティバル) — Weekly Dig / CC BY 2.0
- ゴーストフェイス・キラー (2010年8月、ノルウェー公演) — Niklas Hellerstedt / CC BY 2.0
- インスペクター・デック (2013年5月、パリ) — Coup d'Oreille / CC BY-SA 2.0
- ア・トライブ・コールド・クエスト (2008年撮影) — Charice L. from USA / CC BY-SA 2.0
- Qティップ (2008年撮影) — docmonstereyes / CC BY 2.0
- DJプレミア (2019年撮影) — Sven Volkens / CC BY-SA 4.0
- グールー(ギャング・スター)。2006年撮影 — Barbara Mürdter / CC BY-SA 3.0
- ピート・ロック (2011年撮影) — pinguino k from North Hollywood, USA / CC BY 2.0
- モブ・ディープ(ハヴォック) (2014年撮影) — Tobias Nielsen (Flickr user Tobi Nielsen) / CC BY 2.0
- ブラック・ムーンのバックショット (2009年、モントリオールでのライブ) — Flowizm / CC BY 2.0
- レッドマン (2016年、ドイツでの公演) — Stefan Brending (2eight) / CC BY-SA 3.0 de
- オニクスのスティッキー・フィンガズとフレドロ・スター (2014年、ライブ) — EnglishLoverWillie (English Wikipedia) / CC0
- ノーティ・バイ・ネイチャーのステージ (2012年、シドニーのスーパーフェスト) — Eva Rinaldi / CC BY-SA 2.0
- バスタ・ライムス (2022年撮影) — All-Pro Reels / CC BY-SA 2.0
- コモン (2018年、ニューヨーク・ブルックリンのセレブレイト・ブルックリン公演) — Steven Pisano (Feast of Music) / CC BY 2.0
- ザ・ルーツのブラック・ソート (1999年、ドイツ公演) — Mika Väisänen / CC BY 3.0
- ザ・ファーサイド (1999年、ドイツ・ハンブルク) — MikaV (Mika Väisänen) / CC BY-SA 3.0
- デジタブル・プラネッツ (2010年12月、コロラド州フォートコリンズでのライブ) — Jester Jay Goldman / CC BY-SA 2.0
- ソウルズ・オブ・ミスチーフ (フェスト、タジャイ、オピオ、A・プラス。インタビュー映像より) — User:AstonishingTunesAdmirer, Manifesto TV, Bloop Show / CC BY 3.0
- ワイクリフ・ジョン (2021年、米オマハでの公演) — Matt Johnson (Matt A.J.) / CC BY 2.0
- ウォーレンG (2007年2月、アカデミー賞アフターパーティーにて) — John B. Mueller / CC BY 2.5
- カラプト (2015年、ロサンゼルスのスヌープ・ドッグ関連パーティー) — Connie Lodge / CC BY-SA 2.0
- サイプレス・ヒル (1998年、ドイツ・ボンでのツアー中の楽屋) — Mika Väisänen / CC BY-SA 4.0
- クーリオ (2012年、ニューヨーク・ブルックリンのグレート・グーガモーガ・フェスティバル) — Timothy Krause / CC BY 2.0
- E-40 (2007年撮影) — Gamerscore Blog / CC BY-SA 2.0
- ボーン・サグスのウィッシュ・ボーン (2015年、トロントのダンフォース・ミュージック・ホール) — Drew Yorke (The Come Up Show) / CC BY 2.0
- シーロー・グリーン (2022年、米アリゾナ州フェニックスのイベント) — Gage Skidmore / CC BY-SA 3.0
- スカーフェイス (2013年撮影) — Jeremy Perez Photos. / CC BY-SA 2.0
- UGKのバンB (2013年撮影) — Eli Watson / CC BY 2.0
- スリー・6・マフィア (DJポールとジューシーJ、2007年12月撮影) — Jay West / CC BY-SA 3.0
- マスターP (2001年、ドイツ) — Mika Väisänen (Mikamote) / CC BY-SA 3.0
- ファット・ジョー (2011年、オーストラリアのスーパーフェスト) — Eva Rinaldi / CC BY-SA 2.0
- DMX (2014年、ツウェンティ・フォー・フェスティバルでの公演) — Rzom_ / CC BY-SA 2.0
- ティンバランド (2019年、コリジョン・カンファレンス) — Collision Conf / CC BY 2.0
- リル・キム (2008年、ライブ) — windyjonas (Flickr) / CC BY 4.0
- イヴ (2011年、ニューヨークのレッドドレス・コレクション) — The Heart Truth (U.S. Dept. of Health and Human Services) / Public domain
- ショーン・コムズ(パフ・ダディ/ディディ)。2010年、ディディ・ダーティ・マネーとして — Reckless Dream Photography / CC BY 2.0
- アレステッド・ディベロップメント (2006年、ベルギーでのライブ) — Joris Peeters / CC BY 2.0
- アンドレ3000 (2014年撮影) — David Shankbone / CC BY 3.0
- ビッグ・ボーイ (2006年撮影) — Utoks / CC BY 3.0
- マスタ・エース (2002年、ハンブルクでのライブ) — Mikamote (Mika Väisänen) / CC BY-SA 3.0
- ブランド・ヌビアンのグランド・プーバ (2014年撮影) — DeShaun Craddock / CC BY-SA 4.0
- MCハマー (2008年撮影) — Brian Solis / CC BY 2.0
- サー・ミックス・ア・ロット (2016年、ポートランドのローズ・フェスティバルにて) — New Millennium Music / CC BY-SA 4.0
- ダズ・EFX (1997年、ニューヨーク) — Mika Väisänen (Mika-photography) / CC BY-SA 3.0
- ヨーヨー (1997年、ニューヨーク) — Mika Väisänen / CC BY-SA 4.0
- ロード・フィネス (2014年撮影) — JonathanMena / CC BY 2.0
- ダイアモンド・D (2008年、アトランタのA3Cフェスにて) — Dom Brady / CC BY 2.0
- ラージ・プロフェッサー (2016年7月、ブルックリン・ボウルでのRahzel and Friendsにて) — Steven Pisano / CC BY 2.0
- ジェルー・ザ・ダマジャ (2016年7月、ドイツのOut4Fame Festivalにて) — Dominik Lippe (Lipstar) und Yannic Lippe / CC BY-SA 2.5
- M.O.P. (2017年、ドイツ公演にて) — Stefan Brending (2eight) / CC BY-SA 3.0 DE
- スミフ・ン・ウェッスン (2015年、フェニックスでのライブ) — Drew Yorke-Slader / CC BY 2.0
- フォクシー・ブラウン (1998年4月、ニューヨークで) — Mika-photography / CC BY-SA 3.0
- トリーナ (2009年9月、マイアミでのBleu誌のサイン会にて) — Tiff Wilson / CC BY-SA 2.0
- ミスティカル (2012年SXSWでのライブ) — Daniel Benavides from Austin, TX / CC BY 2.0
- ルニズのユークマウス (写真はメンバーのYukmouth) — BOSS TALK 101 / CC BY 3.0
- ジュラシック5 (2000年、ドイツ・ハンブルクで) — Mika-photography / CC BY-SA 3.0
- ダイレイテッド・ピープルズ (2001年9月、ドイツ・ハンブルクにて) — Mika-photography / CC BY-SA 3.0
- ブラックアリシャス (2008年、ペイド・デューズでのライブ。左がチーフ・エクセル、右がギフト・オブ・ギャブ) — Flowizm / CC BY 2.0
- アトモスフィアのスラッグ (2009年8月、サンフランシスコのOutside Landsにて) — Moses / CC BY 2.0
- カンパニー・フロウのEl-P (2007年撮影) — Fred Benenson / CC BY 2.0
- イソップ・ロック (2007年、シアトルでのライブ) — Alex Blackstock from San Francisco, CA, USA / CC BY 2.0
- アウトロウズのヤング・ノーブル (2006年撮影) — Mogkilluminati / CC BY-SA 3.0
- トゥイスタ (2010年11月、シカゴのラジオ局WGCIにて) — Photobra Adam Bielawski / CC BY-SA 3.0
- WC (WCアンド・ザ・マッド・サークルのフロントマン、1989年ロサンゼルス) — IthakaDarinPappas / CC BY-SA 4.0
- ロイド・バンクス(G-ユニット)。2008年頃、ビデオ撮影現場で — East718 (English Wikipedia); derivative work Adabow / Public domain
- ネリー (2007年) — reeb0k2008 / CC BY 2.0
- リュダクリス (2009年4月) — Kelseymariebell / CC BY 3.0
- T・ペイン (2019年、iHeartRadioミュージック・アワード) — Glenn Francis (PacificProDigital.com) / CC BY-SA 4.0
- ヤング・ジージー (2005年7月) — Timothy M. Moore / CC BY-SA 3.0
- グッチ・メイン (2017年8月、アイオワ州デモインの「515 Alive」にて) — Evan Guest / CC BY 2.0
- ワカ・フロッカ・フレイム (2014年8月、ライブでのパフォーマンス) — Eddy Rissling for The Come Up Show / CC BY 2.0
- リル・ジョン (2007年9月、イベント会場にて) — Gamerscore Blog from USA / CC BY-SA 2.0
- イン・ヤン・ツインズのケイン (左)とD-ロック(2008年、グリーンランド・チューレ空軍基地のUSOショー) — Adam M. Stump, U.S. Air Force / Public domain
- D4Lのファボ (2023年、アトランタでのライブ) — HOTSPOTATL / CC BY 3.0
- ポール・ウォール (2005年6月撮影) — Bradley G. / CC BY 2.0
- チャミリオネア (2008年7月撮影) — Brian Solis / CC BY 2.0
- プシャ・T (2013年撮影) — Simon Abrams / CC BY-SA 4.0
- ファレル・ウィリアムス (2014年4月、コーチェラ・フェスティバル) — Shawn Ahmed / CC BY 2.0
- キャムロン (2014年、ワシントンDCのブロッコリー・シティ・フェスティバル) — fuseboxradio (Flickr) / CC BY-SA 2.0
- モス・デフ(現ヤシーン・ベイ)。2012年、フィンランドのイロサーリロック — Tuomas Vitikainen / CC BY-SA 3.0
- ルーペ・フィアスコ (2008年10月、ニューオーリンズのブードゥー・ミュージック・エクスペリエンス) — Vincent Escudero / CC BY 2.0
- キッド・カディ (2009年、『Man on the Moon』公演) — J. Rivera from California, US / CC BY 2.0
- ザ・ゲーム (2011年、オーストラリアのスーパーフェスト) — Eva Rinaldi / CC BY-SA 2.0
- ディジー・ラスカル (2018年7月、フィンランド・Ilosaarirockでのライブ) — Tuomas Vitikainen / CC BY-SA 4.0
- MFドゥーム (2011年7月、ライブでのパフォーマンス) — possan / CC BY 2.0
- マッドリブ (2014年、ロサンゼルスのエコープレックスでのDJ) — Carl Pocket / CC BY-SA 2.0
- J・ディラ (写真はJ・ディラ愛用のAkai MPC3000(スミソニアン博物館所蔵)) — National Museum of African American History and Culture, Smi / CC0
- ジャ・ルール (2016年、ウェブ・サミットのステージで) — Web Summit / CC BY 2.0
- キャシディ (2005年5月、サインをする姿) — Timothy M. Moore at https://www.flickr.com/photos/photocolog / CC BY-SA 3.0
- ビーニー・シーゲル (2002年3月、ドイツ・ケルンで) — User:Mika-photography / CC BY-SA 3.0
- フリーウェイ (2008年7月、デラウェア州ウィルミントンでのライブ) — Saquan Stimpson from Newark, DE, USA / CC BY 2.0
- メンフィス・ブリーク (1998年、ニューヨークで撮影) — Mikamote / CC BY-SA 3.0
- ステイト・プロパティのビーニー・シーゲル (2002年3月、ドイツ・ケルンにて) — User:Mika-photography / CC BY-SA 3.0
- ジョー・バドゥン (2010年3月のライブ) — InkwellDesignGroup / CC BY 2.0
- パプース (2013年12月、パリのGlaz'Artでのライブ) — Coup d'Oreille / CC BY-SA 2.0
- レミー・マー (2005年撮影) — Timothy M. Moore at https://www.flickr.com/photos/photocolog / CC BY-SA 3.0
- トリック・ダディ (2015年撮影) — Kwan Wallace (KJW Photography) / CC BY 2.0
- ブージー・バッダス (リル・ブージー名義、2014年7月のライブ) — TrillEntCMG / CC BY-SA 3.0
- フロー・ライダー (2026年7月、The Great American State Fairでのライブ) — Gage Skidmore / CC BY-SA 4.0
- エイコン (2019年5月、Collision Conferenceのバックステージにて) — Collision Conf / CC BY 2.0
- ピットブル (2012年、プラネット・ピット・ツアー・シドニー公演) — Eva Rinaldi / CC BY-SA 2.0
- テック・ナイン (2006年11月、ミズーリ州インディペンデンスでのアルバム発売サイン会にて) — Mizery Made / CC BY-SA 3.0
- ナッピー・ルーツのライブ (2005年撮影) — Simon Law (sfllaw) / CC BY-SA 2.0
- J・コール (2010年3月、SXSWにて) — H D / CC BY 2.0
- ニッキー・ミナージュ (2012年、ロンドン公演) — Rory from Glasgow, United Kingdom / CC BY 2.0
- ビッグ・ショーン (2015年4月撮影) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- ミーク・ミル (2015年9月、フィラデルフィアのMade in Americaにて) — Chris Sikich from Philadelphia, USA / CC BY-SA 2.0
- A$AP・ロッキー (2025年5月、カンヌ国際映画祭) — Gabriel Hutchinson / CC BY-SA 4.0
- タイラー・ザ・クリエイター (2025年7月、トロント公演) — Lygonstreet / CC BY-SA 4.0
- アール・スウェットシャツ (2026年1月、コペンハーゲンのAmager Bioにて) — 414.Elis / CC BY 4.0
- チャイルディッシュ・ガンビーノ (2014年3月、SXSWにて) — Daniel Benavides / CC BY 2.0
- ジョーイ・バッドアス (2017年9月撮影) — The Come Up Show / CC BY 2.5
- キラー・マイク (2014年、Run the Jewelsとして米アイダホ州ボイジーのTreefort Music Festivalにて) — Treefort Music Fest / CC BY 2.0
- ダニー・ブラウン (2017年、米オレゴン州ポートランドのProject Pabstにて) — Julio Enriquez from Denver,CO, USA / CC BY 2.0
- チャンス・ザ・ラッパー (2017年5月、コロラド州レッドロックス野外劇場) — Julio Enriquez / CC BY 2.0
- スクールボーイ・Q (2012年8月撮影) — DJ Teck / CC BY 2.0
- ヴィンス・ステイプルズ (2015年6月、NXNEにて) — Tse Daniel for The Come Up Show / CC BY 2.0
- マック・ミラー (2017年、ドイツのsplash! Festivalにて) — Nicolas Völcker / CC BY-SA 4.0
- クエイヴォ (2018年、音楽フェスPalmesusでのライブ) — Jørund Føreland Pedersen / CC BY-SA 4.0
- オフセット (2024年、Clout Festivalでのライブ) — Wojciech Pędzich / CC BY 4.0
- テイクオフ (2017年、ミーゴスのライブ) — The Come Up Show (Charito Yap) / CC BY 2.0
- リル・ヨッティ (2016年8月撮影) — Anton Mak / CC BY 2.0
- 21サヴェージ (2018年6月、テキサス州オースティンの野外劇場) — Ralph Arvesen / CC BY 2.0
- ポスト・マローン (2020年2月、シカゴ公演) — Adam Bielawski / CC BY-SA 4.0
- リル・ナズ・X (2019年8月、MTVビデオ・ミュージック・アワードの舞台裏) — Fabebk / CC BY-SA 4.0
- コダック・ブラック (2018年10月撮影) — Chrisallmeid / CC BY-SA 4.0
- ダベイビー (2023年6月、アトランタのBirthday Bashにて) — HOTSPOTATL / CC BY 3.0
- チーフ・キーフ (2019年のライブ) — glenjamn3 / CC BY 3.0
- ザイトーヴェン (2025年3月、SXSWのトークセッション) — Vbrunophotog / CC BY-SA 4.0
- マスタード (2019年3月、iHeartRadio Music Awardsにて) — Toglenn / CC BY-SA 4.0
- レイ・スレマード (スリム・ジミー&スウェイ・リー、2015年撮影) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- フェティ・ワップ (2019年) — Bs.Ballout / CC BY 3.0
- ストームジー (2022年3月、ロンドンのThe O2にて) — Raph_PH / CC BY 2.0
- DJキャレド (2012年4月、Gig-Itのローンチイベントにて) — Meghan Roberts / CC BY 2.0
- ウィズ・カリファ (2023年、フロリダ州ウェストパームビーチでのライブ) — Rickmunroe01 / CC BY-SA 4.0
- B.o.B (2013年8月、トロントでのUnder the Influence Tourにて) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- ビッグ・K.R.I.T. (2015年12月、ジョージア州メイコンでのKritically Acclaimed Tourにて) — Usfjrain / CC BY-SA 4.0
- カレンシー (2010年、The Come Up Showにて) — thecomeupshow / CC BY 2.0
- YG (2015年、ロサンゼルスでのイベントにて) — Connie Lodge / CC BY-SA 2.0
- ニプシー・ハッスル (2009年3月、シカゴのHouse of Bluesにて) — Adam Bielawski / CC BY-SA 3.0
- リル・B (2011年2月撮影) — https://www.flickr.com/photos/generationbass/ / CC BY 2.0
- マシン・ガン・ケリー (2018年7月、ミルウォーキーのSummerfestにて) — Paulien Zomer / CC BY-SA 4.0
- ホプシン (2013年、トロントでのライブ) — thecomeupshow / CC BY 2.0
- ロジック (2018年9月、米デンバーのGrandoozyにて) — Julio Enriquez from Denver,CO, USA / CC BY 2.0
- ラス (2025年7月、トロントでのInto The W!ld Tourにて) — TorontoPhoto9290 / CC0
- マックルモア&ライアン・ルイス (2011年5月、Sasquatch Music Festivalでのライブ) — Christopher Dube / CC BY-SA 3.0
- リル・ディッキー (2015年9月、Bumbershoot Festivalにて) — Kayla Johnson / CC BY 2.0
- イェラウルフ (2015年、ポイントフェストでのライブ) — Abby Gillardi / CC BY 2.0
- エース・フッド (2013年10月撮影) — Chad Cooper / CC BY 2.0
- リッチ・ホーミー・クワン (2014年、Under The Influence Tourでのライブ) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- トリッピー・レッド (2018年2月、テキサス州オースティンのACL Live Moody Theaterにて) — Ralph Arvesen / CC BY 2.0
- リル・スカイズ (2019年、デンバーでのライブ) — Julio Enriquez from Denver,CO, USA / CC BY 2.0
- スモークパープ (2018年5月、トロントのPhoenix Concert Theatreにて) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- YBNナミール (2018年1月、トロントのMod Clubでのライブ) — The Come Up Show from Canada / CC BY 2.0
- ブルーフェイス (2020年のインタビュー映像より) — MILLION DOLLAS WORTH OF GAME / CC BY 3.0
- リル・ティージェイ (2019年6月撮影) — Bearian / CC BY-SA 4.0
- NLEチョッパ (2019年7月撮影) — WikiWikiSkylar / CC BY-SA 4.0
- シティ・ガールズ (左:ヤング・マイアミ、右:JT。2018年7月) — Cntrl+Alt+Delete / CC BY 3.0
- セイウィーティー (2021年撮影) — Amywesson / CC BY-SA 4.0
- エイ・ブギー・ウィット・ダ・フーディ (2017年11月、トロントのライブにて) — Curtis Huynh for The Come Up Show / CC BY 2.0
- リッチ・ザ・キッド (2019年7月、スイス・Openair Frauenfeldでのライブ) — Frank Schwichtenberg / CC BY-SA 4.0
- JPEGMAFIA (2019年8月、カナダ・カルガリーのSled Islandにて) — Levi Manchak / CC BY 2.0
- インジャリー・リザーブ (2018年2月、トロントのRivoliでのライブ) — The Come Up Show from Canada / CC BY 2.0
- アースギャング (2016年、トロントでのライブ) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- ラプソディ (2014年5月、パリ公演) — Coup d'Oreille / CC BY-SA 2.0
- スミノ (2016年10月撮影) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- アイザイア・ラシャド (2017年1月のライブ) — The Come Up Show / CC BY 2.0
- コーデイ (2019年、スイスのOpenair Frauenfeldにて) — Frank Schwichtenberg / CC BY-SA 4.0
- フィヴィオ・フォーリン (2023年7月) — Mixtape Madness / CC BY 3.0
- ロディ・リッチ (2022年11月、インタビュー動画より) — Million Dollaz Worth of Game / CC BY 3.0
- ガナ (2019年、スイスのOpenair Frauenfeldにて) — Frank Schwichtenberg / CC BY-SA 4.0
- リル・ダーク (2022年) — JD Sports / CC BY 3.0
- アイス・スパイス (2024年11月、ロンドンのOuternetにて) — Raph_PH / CC BY 2.0
- グロリラ (2025年、Essence Festでのライブ) — Cameron Woods / CC BY-SA 4.0
- ラト (2024年、ラジオ番組のインタビューにて) — HOTSPOTATL / CC BY 3.0
- ドーチー (2022年7月、米デンバーのFillmore Auditoriumにて) — Josh Berendes (@brende_films) / CC BY 3.0
- ベイビー・キーム (2022年撮影) — Joseph Higgins / CC BY 2.0
- デンゼル・カリー (2017年3月撮影) — friedoxygen / CC BY 2.0
- ドン・トリヴァー (2021年9月、米サンディエゴ公演) — Sanchez Productions / CC BY-SA 4.0
- セントラル・シー (2023年7月、Lollapalooza Parisにて) — 200izo / CC BY-SA 4.0
- デイヴ (2019年5月、ロンドン・ブリクストンのO2 Academyにて) — SamuelWren98 / CC BY-SA 4.0
- フレディ・ギブス (2014年3月、ロサンゼルスのEchoplexにて) — Carl Pocket / CC BY-SA 2.0
- グリゼルダのコンウェイ・ザ・マシーン (2022年のインタビュー映像より) — SUPA CINDY / CC BY 3.0
- バッド・バニー (2019年10月、ロサンゼルスにて) — Toglenn / CC BY-SA 4.0
- ドージャ・キャット (2024年、ロンドンO2アリーナ公演) — Raph_PH / CC BY 2.0
- コイ・リレイ (2026年、エッセンス・フェスティバルでのライブ) — Runawaymo / CC BY-SA 4.0
- セクシー・レッド (2023年12月) — MILLION DOLLAZ WORTH OF GAME / CC BY 3.0
- BIA (2017年2月、ニューハンプシャー州でのDangerous Woman Tourにて) — Emma / CC BY-SA 2.0
- フロ・ミリ (2024年、ラジオ番組のインタビューにて) — HOTSPOTATL / CC BY 3.0
- デストロイ・ロンリー (2024年、クラウト・フェスティバルでのライブ) — Wojciech Pędzich / CC BY 4.0
- ナルド・ウィック (2022年7月、Birthday Bash ATLでのパフォーマンス) — HOTSPOTATL / CC BY 3.0
- ビッグXザプラグ (2023年のインタビュー映像より) — BOSS TALK 101 / CC BY 3.0
- アルマニ・ホワイト (2023年9月、米国務省Global Music Diplomacy Initiative発足イベントにて) — U.S. Department of State from United States / Public domain
- ラリー・ジューン (2018年5月、トロントのPhoenix Concert Theatreでのライブ) — The Come Up Show from Canada / CC BY 2.0
- ロブ49 (2023年、ラジオ番組WHTAのインタビューにて) — WHTA / CC BY 3.0
- ハンチョ (ポッドキャスト出演時の映像より) — MILLION DOLLAZ WORTH OF GAME / CC BY 3.0
- E-mu SP-1200 (サンプラー) — 2xUeL (Wikipedia/Commons user) / Public domain
- Akai MPC (サンプラー) — user:withe (Wikimedia Commons) / Public domain
- Roland TR-808 (リズムマシン) — Brandon Daniel (Flickr); derivative work: Clusternote / CC BY-SA 2.0
- スケプタ (2016年7月、フランスでのライブにて) — Batiste Safont / CC BY-SA 4.0
- ワイリー (2005年、ニューヨークでのライブ) — believekevin / CC BY-SA 2.0
- AJ・トレイシー (2019年、AIMアワードでのパフォーマンス) — Jwslubbock / CC BY-SA 4.0
- ヘディ・ワン (2017年、Mixtape Madness映像より) — Mixtape Madness / CC BY 3.0
- リトル・シムズ (2019年、スイスのOpenair Frauenfeldにて) — Frank Schwichtenberg / CC BY-SA 4.0
- スロウタイ (2023年、シドニーのレーンウェイ・フェスティバルにて) — Bruce Baker / CC BY 2.0
- ケイノ (2017年、スプラッシュ!フェスティバルでのライブ) — Nicolas Völcker / CC BY-SA 4.0
- ルーツ・マヌーヴァ (2012年3月、オークランド公演にて) — Anaïs Chaine / CC BY-SA 3.0
- リーサル・ビズル (2007年撮影) — Max Gleeson (derivative work: A Thousand Doors) / CC BY 2.0
- ザ・ストリーツのマイク・スキナー (2019年6月、グラストンベリー・フェスティバルのジョン・ピール・ステージ) — Simoncromptonreid / CC BY-SA 4.0
- M.I.A. (2009年撮影、アウトサイド・ランズ・フェスティバル) — Moses (moses namkung), noise reduction by Jujutacular / CC BY 2.0
- MCソラール (2009年7月、マルセイユでのRH Factorとの共演にて) — Thomas Faivre-Duboz / CC BY-SA 2.0
- IAM (2019年、パリでの音楽賞授賞式にて) — CsdemFrance / CC BY-SA 4.0
- ブーバ (2019年7月、フランス・ヴィエイユ・シャリュ音楽祭にて) — Thesupermat / CC BY-SA 4.0
- ネクフ (2017年10月、パリでの映画プレミアにて) — Georges Biard / CC BY-SA 3.0
- カピタル・ブラ (2018年2月、ドイツ・ニュルンベルクのDer Hirschでのライブ) — Stefan Brending (2eight) / CC BY-SA 3.0 de
- シド (2011年、フランクフルトでのライブ) — Sven-Sebastian Sajak (Sven0705) / CC BY-SA 3.0
- エピック・ハイ (2019年3月、ソウル・COEXでのファンサイン会にて) — Explicit / CC BY-SA 4.0
- Dok2 (2018年、釜山海のフェスティバルにて) — Explicit / CC BY-SA 4.0
- ジェイ・パーク (2012年のステージ) — 임윤아1 / CC BY-SA 2.0
- ジコ (2017年7月、ソウルでのMonster Concert #5にて) — Bonnielou2013 / CC BY-SA 4.0
- ザ・クワイエット (2018年、釜山海のフェスティバルにて) — Explicit / CC BY-SA 4.0
- ビンジノ (2011年6月、ソウルのPuma X Undefeated Clyde Block Partyにて) — Lamin / CC BY 4.0
- ダディ・ヤンキー (2015年) — Daddy Yankee / CC BY 3.0
- アヌエル・AA (2022年1月、インタビュー映像より) — Tony Dandrades / CC BY 3.0
- レシデンテ (2019年、パナマのMUPAフェスティバルにて) — RandyNavarroB / CC BY-SA 4.0
- ラシオナイス・MC's (2013年5月、サンパウロでのライブ) — Fernando Eduardo / CC BY 2.0
- エミシーダ (2023年、ブエノスアイレスのMICAにて) — Ministerio de Cultura de la Nación / CC BY-SA 2.0
- サーコディ (2017年10月、ガーナ・アクラのモールでのコンサートにて) — Owula kpakpo / CC BY-SA 4.0
- キャスパー・ニョヴェスト (2014年4月、Back to the City フェスティバルにて) — Thabiso Molatlhwa / CC BY 2.5 za
- カリグラフ・ジョーンズ — Safari jpk / CC BY-SA 4.0
- カーディナル・オフィシャル (2024年9月、トロント国際映画祭にて) — Kevin Payravi / CC BY-SA 4.0
- マエストロ・フレッシュ・ウェス (2023年、ハリファックス・ジャズ・フェスティバルにて) — A Disappearing Act / CC BY-SA 2.0
- ヒルトップ・フーズ (左:サファ、右:プレッシャー。2012年5月、Groovin the Mooにて) — Gwendolyn Lee from Sydney, Australia / CC BY-SA 2.0
- いとうせいこう (2019年4月、アースデイ・コンサート2019・代々木公園野外ステージにて) — Nesnad / CC BY 4.0
- スチャダラパー (2022年8月、渋谷でのライブ) — Nesnad / CC BY 4.0
- キングギドラのZEEBRA (2008年、バンコクのアジアン・ヒップホップ・フェスティバルにて) — Sry85 / CC BY 3.0
- ZEEBRA (2008年10月、バンコクのアジアン・ヒップホップ・フェスティバル) — Sry85 / CC BY 3.0
- RHYMESTER (2011年12月、COUNTDOWN JAPANでのライブ) — Nesnad / CC BY-SA 3.0
- 宇多丸(RHYMESTER)/2026年4月、TBSラジオのスタジオにて — さえぼー (Saebo) / CC0
- RIP SLYME (2016年8月13日、ライブ) — Nesnad / CC BY-SA 4.0
- Awich (2017年7月、沖縄・キャンプ・ハンセンでのライブ) — Tayler P. Schwamb (U.S. Marine Corps) / Public domain
- DJ KRUSH (2007年、バンクーバーでのライブ) — Jhayne / CC BY 2.0
- Shing02 (2011年9月、ニューヨークのb.p.m.でのライブ) — May S. Young from Metro NYC, United States / CC BY 2.0
- THA BLUE HERB (2016年のステージ) — Nesnad / CC BY-SA 4.0
- PUNPEE (2024年7月、ライブにて) — Nesnad / CC BY 4.0
- 呂布カルマ (2021年4月、Sasa Folk Jamboreeでのライブ) — Jun Tsuneda / CC BY-SA 4.0