ReggaeHistoryレゲエ全史
音楽より先に、巨大なスピーカーがあった。1950年代のキングストンで街角を揺らしたサウンドシステムから、ボブ・マーリー、キング・タビー、ショーン・ポール、コフィまで。ジャマイカの小さな島が、世界の音楽の低音を作り変えた70年を、年代順とテーマ別に辿る。
レゲエは、音楽である前に「スピーカー」だった




レゲエを「ゆるくてレイドバックした南国の音楽」だと思っている人は多い。半分は合っている。ただ、もう半分は違う。レゲエは、植民地支配の歴史を引きずったまま独立を迎えた島で、スラムの若者が自分たちの声を届けるために育てた音楽だ。ゆったりしたリズムの底には、貧しさ、信仰、政治、そして踊る喜びが全部入っている。
音楽の形にも、ほかにない特徴がある。まず「サウンドシステム」という発明。レコードをかけるために、トラックに積めるほどの巨大なスピーカーと、DJ(セレクター)、マイクを握る進行役(トースター)が街を回った。バンドが演奏するより先に、再生装置のほうが主役だったのだ。次に「リディム(riddim)」という考え方。ひとつのバックトラックを使い回し、歌手とDJがその上で何度も別の曲を乗せる。これは後のヒップホップのビートの使い方、ダンスミュージックのリミックスの発想そのものにつながっていく。
このページは、そのレゲエの70年を年代ごとに辿る読み物だ。前半はスカ→ロックステディ→レゲエ→ダンスホールという「ジャマイカ国内の変化」、後半はラスタファリ、ダブ、サウンドシステム、UK、世界、ヒップホップ、日本というテーマ別の章で構成している。
※ 年号・記録は一般に流布している資料に基づく。諸説あるものは「とされる」と書いた。ヒップホップ全史と同じく、盛岡のクラブの夜につながる話を選んでいる。
- 1950sキングストンでサウンドシステムが街の娯楽になる。アメリカのR&Bを爆音で流し、ジャマイカ産の音源の需要が生まれる。
- 1962ジャマイカ独立(8月6日)。同じ年、スカが「独立の音」として広まる。
- 1966夏の暑さでテンポが落ち、ロックステディの時代へ。歌とコーラスが主役になる。
- 1968トゥーツ&ザ・メイタルズ「Do the Reggay」。この曲から「レゲエ」という言葉が使われはじめたとされる。
- 1972映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』(原題 The Harder They Come)公開。ジミー・クリフ主演。レゲエが海外の映画館に届く。
- 1973Bob Marley & the Wailers『Catch a Fire』。ロック市場に向けた初のレゲエ・アルバムとして世界に出る。
- 1977Culture「Two Sevens Clash」、Bob Marley『Exodus』。ルーツ・レゲエの頂点。
- 19815月11日、ボブ・マーリーが36歳で死去。
- 1985Wayne Smith「Under Mi Sleng Teng」。デジタル・リディムの時代が開く。
- 2005Damian Marley「Welcome to Jamrock」。ジャマイカ産の音が再びチャートの中心へ。
- 201811月29日、ユネスコが「ジャマイカのレゲエ音楽」を無形文化遺産に登録。
- 2020Koffee『Rapture』が最優秀レゲエ・アルバムでグラミー賞。女性としても最年少としても初の受賞とされる。
1950年代キングストン、トラックに積んだスピーカー
歌より先にスピーカーがあった。レコードを独占した者が夜を制する。ジャマイカの音楽産業は、街角のダンスから始まった。


レゲエの出発点は、バンドでもスタジオでもなく、屋外のダンスパーティーだった。1950年代のキングストン。ラジオから流れるのは主にアメリカの音楽で、庶民が自由に聴ける場所は少なかった。そこで人々は、トラックに自作のスピーカー・タワーを積み、レコードをかけて夜通し踊れる「サウンドシステム」を作った。
有名どころは3人。デューク・リード(元警官で、のちに「The Trojan」と呼ばれる)、コクソン・ドッド(Downbeat)、そしてトム・ザ・グレート・セバスチャン。彼らはアメリカの流行り物のR&Bを仕入れるため船員や運び屋に頼んだが、やがて「他のシステムと同じ曲では勝てない」ことに気づく。ラベルを剥がして曲名を隠し、自分たちだけの曲を録音して、独占して回す——「持っている音源の差」が勝敗を分ける文化がここで生まれた。
録音は、最初は借り物のスタイルだった。ニューオーリンズ風のR&Bのシャッフルを、ジャマイカのミュージシャンがなぞる。ところが次第に、アクセントの位置が逆になった。普通の4/4拍子は1・3拍目を強く叩くが、ジャマイカでは2・4拍目(裏拍)にギターやピアノが刻まれる。のちにスカ、ロックステディ、レゲエ全体に通底する「裏打ち」の誕生だ。
同じころ、もうひとつの源流があった。農村の民俗音楽メントだ。バンジョーやハンド・ドラムを使い、ユーモアのある歌詞で日常を歌う。後のスカやレゲエの歌詞に残る「風刺」と「軽さ」は、ここにルーツがあるとされる。



独立、そして三つの音——スカ、ロックステディ、レゲエ
数年ごとにテンポと言葉が変わる。ジャマイカ音楽が最も速く進化した10年。



スカ(1960年前後〜1966)
独立のころ、国内で生まれた最初の「ジャマイカ自前のダンスミュージック」がスカだ。裏拍で刻むギターとピアノ、歩くようなベース、ジャズ仕込みのホーンセクション。名前の由来は、ギターの「スカッ、スカッ」という音からと言われる。この音を引っ張ったのがスカタライツで、メンバーには天才トロンボーン奏者のドン・ドラモンド、サックスのトミー・マクックらがいた。
スカは海外にも渡った。1964年、ミリー・スモールの「My Boy Lollipop」が英米でヒットし、同年のニューヨーク万国博覧会にはジャマイカ代表団が出演した。ただ、スカの勢いは数年で一服する。
ロックステディ(1966〜68)
理由のひとつに、1966年の猛暑がある。「暑すぎて速いテンポでは踊れなかった」とも言われ、リズムが遅く、ベースが重くなった。これがロックステディだ。ホーンの代わりにコーラスと歌が前に出て、愛や別れを歌う甘い曲が増えた。アルトン・エリス、ヘプトーンズ、パラゴンズ、フィリス・ディロン——この時期は「歌の黄金期」とも呼ばれる。
音の面でも革命があった。ベースが「メロディを刻むもの」へ変わり、ドラムは3拍目に大きなアクセントを置く。のちのレゲエのスタイルへの橋渡しが、ここで完成する。
「レゲエ」の誕生(1968〜)
1968年、トゥーツ&ザ・メイタルズが「Do the Reggay」を発表する。「レゲエ」の語源は諸説あるが、この曲がジャンル名を定着させたとされる。ロックステディよりさらに遅れて、ギターがチャカチャカと刻み、オルガンが「バブル」と呼ばれる粒立ちを入れる。デズモンド・デッカー「Israelites」(1968年録音)は、1969年に英国チャート1位を獲得し、ジャマイカ産の曲が世界の一位になるという前例を作った。








マーリーとルーツ——世界に届いた低音
映画、アルバム、一人の巨星。そして政治の銃声。レゲエが世界の音楽になった10年。



1970年代、レゲエは国の外へ出た。きっかけは映画と、イギリスのレーベル、アイランド・レコードの創設者クリス・ブラックウェルだった。彼はウェイラーズを「ロック・バンド」のようにアルバム単位で売り出した。『Catch a Fire』(1973)で世界に出たボブ・マーリーは、『Natty Dread』(1974)、ライブ盤『Live!』(1975)、『Exodus』(1977)と続け、ついには世界で最も有名なジャマイカ人になる。エリック・クラプトンが「I Shot the Sheriff」をカバーして全米1位にしたのも1974年だ。
しかしこの時代のレゲエを一人の物語にするのは不十分だ。同時期に、ルーツ・レゲエと呼ばれる一群が現れた。歌詞はラスタファリの信仰、貧困、不当な支配への批判。バーニング・スピア「Marcus Garvey」、カルチャー「Two Sevens Clash」(1977年7月7日に世界が終わるという噂を歌った)、ヘプトーンズの流れを受けたミグティ・ダイアモンズ、ブラック・ユーフ(Big Youth)やユー・ロイ(U-Roy)のようなDJたち。
1970年代のジャマイカは政治的にも荒れていた。与党PNPと野党JLPの支持者が銃で衝突し、キングストンのスラムは政党ごとに色分けされた。ボブ・マーリーが1976年に襲われたのも、この政治の渦中だった。1978年のOne Love Peace Concertで、マーリーが両党首の手を取って掲げた場面は、音楽が政治に介入した象徴として語り継がれている。
1970年代後半には、スタジオの側からも変化が起きていた。リズム隊のスライ&ロビー(スライ・ダンバー、ロビー・シェイクスピア)は、タイトなドラムと太いベースで、ルーツの音をよりモダンにした。1980年代にかけて、彼らは何百ものセッションに参加し、プロデューサーとしても名を残す。















スレン・テン——小さなキーボードが島を変えた
生バンドの時代から、デジタルの時代へ。ダンスフロアがもう一度、音楽の主役になった。



1981年にボブ・マーリーが亡くなり、レゲエは「ひとつの顔」を失った。その空白を埋めたのは、より速く、よりストリートに近い音——ダンスホールだった。名前は、キングストンのダンスホール(サウンドシステムが開かれる会場)に由来する。
初期のダンスホールの顔は、アルビノのDJイエローマン、イーク・ア・マウス、バリントン・レヴィ、サグ・ミノットなど。生バンドの重厚なルーツに比べると、歌詞は日常的で、ときに卑猥で、ユーモアに満ちていた。ルーツ期の「救済」の言葉に代わって、ダンスフロアの今この瞬間が主題になる。
決定的だったのは、1985年のウェイン・スミス「Under Mi Sleng Teng」だ。プロデューサーのキング・ジャミーが、友人のミュージシャンが持ち込んだカシオMT-40の内蔵リズムを元に作った。生のドラムもベースもなく、小さなキーボードのプリセットだけでできたリディムが、島中を席巻した。この後、同じリディムを使った数百曲が作られたとされる。バンドを雇わなくても曲が作れる——ジャマイカの音楽産業は、一晩で作り方が変わった。
この時期、ダンスホールは国外にも広がった。ニューヨークとロンドンのジャマイカ系コミュニティで育ち、のちのヒップホップとの合流の下地ができる。一方、英国ではUB40がジャマイカのレゲエをポップスに変換し、「Red Red Wine」(1983年に英国1位)でヒットを飛ばした。ルーツの精神は、アフリカ(ルーシー・デューブ、アルファ・ブロンディ)でも根づいていく。










ダンスホールが世界のポップスの隣に座った
ヒップホップと混ざり、ポップスと握手し、批判にもさらされる。ダンスホールの国際化。



1990年代、ダンスホールは世界のポップスの隣に座った。シャバ・ランクスはグラミー賞最優秀レゲエ・アルバムを2度受賞(1992年・1993年)し、ダンスホールのDJとして国際的な看板になった。ビーニ・マンとバウンティ・キラーは、「ライバル」としてジャマイカ国内のサウンドクラッシュを燃え上がらせる。
同時に、ヒップホップとの合流が加速する。ニューヨークはジャマイカ系移民が多く、レゲエとラップは同じ街で同じ人々が聴いていた。ノトーリアスB.I.G.はスーパー・キャットと共演し、フージーズはボブ・マーリーを自分たちの言葉でカバーした。
一方で、ジャマイカ国内ではダンスホールの歌詞の暴力性や同性愛嫌悪が国際的な批判を浴びた。ブジュ・バントンの「Boom Bye Bye」は、のちに英米で抗議の対象になる。一方で彼は、1995年の『’Til Shiloh』でラスタの信仰に向き合い、ダンスホールのDJでもここまで深いアルバムが作れることを示した。ダンスホールは、騒がしさと、祈りの両方を持った音楽だった。
「ラガ」と呼ばれる流れも生まれた。ラガマフィン(ragamuffin)から来た言葉で、ヒップホップ寄りのビートに乗せるダンスホール。そして、この頃に作られた「ディム・ボウ(Dem Bow)」リディム——シャバ・ランクスの1990年の曲が元になったとされる——は、のちにプエルトリコやパナマのレゲトンの骨格になっていく。









ポップスのど真ん中へ、そしてマーリー家の逆襲
ショーン・ポールが「Get Busy」を全米1位にし、ダミアン・マーリーがルーツの精神を更新した。



2000年代の入口に立っていたのは、ショーン・ポールだ。ミドルクラスのキングストン出身で、ダンスホールの語り口と、ミニマルで弾むビートを使い、「Get Busy」(2003年全米1位)で世界のラジオを占拠した。2002年の『Dutty Rock』は2004年にグラミー賞のレゲエ部門を受賞した。ダンスホールが、はじめて「ポップスのど真ん中のリズム」になった時期だ。
同じ頃、ボブの末っ子ダミアン・マーリーが『Welcome to Jamrock』(2005)で登場する。同名曲はダンスホール・ビートの上にヒップホップのような社会批判を乗せたもので、世界的ヒットになった。兄ステファンやジュニア・ゴングも含めたマーリー家は、「ルーツの血筋」と「新世代の音」を一族で担うことになる。
2000年代はジャマイカ国内でも勢力図が変わった。ヴァイブズ・カーテルは、ダンスホールの新しい王として名を上げ、クリエイティブな造語とダークな語りでシーンを塗り替えた。マヴァド、エレファント・マン、タリー・ライリーなど、多様な顔ぶれが並ぶ。また、リアーナの「Pon de Replay」(2005)のように、バルバドス出身のポップ・スターがダンスホール調のビートでデビューした例もある。
一方、世界のあちこちで「地元のレゲエ」が育ちはじめた。ドイツのジェントルマン、イタリア出身でジャマイカ在住のアルボロジー、アメリカのレベリオン、SOJA、スラィトリー・ストゥーピッドなどの「レゲエ・ロック」。ジャマイカの外でも、レゲエは自分たちの音楽になった。











レゲエ・リバイバルとユネスコ
ルーツへの回帰と、世界の新しい音との交差。いま、島の外でも島の内でも、新しい世代が主役だ。



2010年代のジャマイカでは、ルーツへの回帰が新世代から起こった。クロニクス(Chronixx)、プロトジェ(Protoje)、ケイバカ・ピラミッド——生バンド、ヴィンテージの機材、ラスタファリの言葉。「レゲエ・リバイバル」と呼ばれた彼らは、ルーツの美学をデジタル時代に持ち込み、世界中の若いリスナーを巻き込んだ。
そこへコフィ(Koffee)が現れる。2018年に18歳で「Toast」をヒットさせ、2020年には『Rapture』でグラミー賞を受賞。レゲエとダンスホール、ヒップホップをなめらかに混ぜる世代の象徴になった。同時期にリラ・アイケ、セヴァナ、スパイスなど、女性アーティストも存在感を増す。
もうひとつの重要な流れは、アフロビーツとの接続だ。ナイジェリアやガーナの新しいポップが、ダンスホールとリズムを交換する。サウンドシステム文化も、世界各地の若い世代の手で更新されている。
悲しい別れも続いた。トゥーツ・ヒバート(2020年9月11日)、バニー・ウェイラー(2021年3月2日)、ユー・ロイ(2021年2月17日)、リー・ペリー(2021年8月29日)、ロビー・シェイクスピア(2021年12月)。ルーツ世代の大半が、ここ数年で世を去った。いま鳴っているのは、彼らから受け取ったバトンだ。











バビロンとザイオン——ラスタファリという言葉
歌詞に出てくる「ジャー」や「バビロン」は、ただの飾りではない。
レゲエを聴くと、「ジャー」「バビロン」「ザイオン」「アイリー」といった独特の言葉が出てくる。これはラスタファリ(Rastafari)という宗教・思想運動の用語だ。1930年代のジャマイカで生まれ、1930年にエチオピア皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世(即位前の名はラス・タファリ・マコンネン)を、神の化身として崇める。
背景には、アフリカからの奴隷の子孫が、自分たちのルーツを取り戻そうとする運動がある。ジャマイカ出身の思想家マーカス・ガーベイが「アフリカへ帰れ」と唱え、ラスタたちは、奴隷制の記憶が刻まれた西洋社会を「バビロン」と呼び、理想の地アフリカ(エチオピア)を「ザイオン」と呼んだ。
見た目の特徴であるドレッドロックス、エチオピア国旗の色(赤・黄・緑)、大麻(ガンジャ)を聖なる儀式として使うこと、菜食に近い食事「イタル」。これらはすべて、「西洋文化とは別のやり方で生きる」という選択の表れだ。当初、ラスタはジャマイカ社会から迫害された。それが1970年代、ボブ・マーリーやバーニング・スピアの音楽を通じて世界に知られていく。
もうひとつの重要な要素がナイヤビンギ。ハンド・ドラムを3つ使う儀式の音楽で、カウント・オジーらがポピュラー音楽に取り入れた。レゲエの「心臓の鼓動のようなリズム」の源流だ。
※ ラスタファリは多様で、実践や解釈は人によって異なる。ここで書いたのは一般的に知られる概要で、信仰の全体を代表するものではない。


ミキサーが楽器になった日——ダブの発明
ボーカルを抜いて、空白と残響で曲を再構築する。レゲエが世界に残した最大の発明のひとつ。
ダブは、レゲエが生んだ最大の発明だ。誕生は1960年代後半。キングストンのサウンドシステムのために、録音からボーカルを抜いてオケだけにした「ヴァージョン」を作るようになった。ボーカルがなくても、DJがその上に語りを乗せられる。これがやがて、スタジオのミキサーそのものを楽器として扱う手法に進化する。
この発明の中心人物がキング・タビー(King Tubby)だ。電気技師だった彼は、キングストンのダウンタウンの自宅スタジオで、ミキサーのフェーダーを動かし、リバーブとディレイを加え、ドラムとベースだけを抜き差しして、曲を再構築した。原曲の骨格を解体して、「空白」と「残響」で組み替える。ベースが空間を揺らし、スネアの音が洞窟の奥に響く。
もう一人の巨人がリー・“スクラッチ”・ペリーだ。1973年に自宅の裏庭に建てたスタジオ「ブラック・アーク(Black Ark)」で、少ない機材を奇妙な方法で使い、霧のように濃く、魔術的な音を作った。1979年にスタジオが火災で焼失(本人による放火と語られる)。その後はヨーロッパに渡り、2021年8月29日に没するまで、実験を続けた。
ダブの影響範囲は広い。リミックスの発想。DJが曲の上で別のレコードを重ねる手法。ヒップホップのプロデューサーがブレイクを分解する方法。UKのジャングル、ダブステップ、ドラムンベース。ハウスのエディットや「ダブ・ミックス」という呼び名もここから来た。現代のクラブミュージックの多くは、ダブの末裔だと言ってもよい。
日本にも、ダブの強い系譜がある(→ 日本の章)。ジャマイカ生まれのこの技法は、いまも世界のどこかの小さな部屋で鳴り続けている。



サウンドシステムとクラッシュ——街角の勝負
スピーカー、セレクター、ダブプレート。「勝負」がこの音楽を進化させてきた。
サウンドシステムの構成は、いまもほぼ同じだ。巨大なスピーカー・ボックス(ベース用のフォールデッド・ホーン、中高域用のスクープなど)、アンプ、ターンテーブル、そしてセレクター(曲を選んでかける人)とMC/DJ(マイクで煽り、語る人)。レコードを再生するだけでなく、ダブプレート——その夜のためだけに作った特注のアセテート盤——を披露することが、システムの誇りだった。
サウンドシステム同士が、一晩のうちに直接対決するサウンドクラッシュが、シーンの中心にある。2台(または複数)が交互に数曲ずつかけ、観客の反応で勝敗が決まる。ラウンドは「ダブプレート合戦」「ユーモア」「相手システムの罵倒」「ソウルフルな選曲」と進む。つまり、クラッシュは音楽のボクシングだ。
スタジオで曲を作る人と、システムで曲を鳴らす人は別の職能だが、互いを必要とする。ヒットは、サウンドシステムでの反応から生まれた。スタジオで作る→ダンスでテストする→売れる、というサイクルを、ジャマイカは1950年代から回し続けている。
この文化は、ヒップホップにも直結している。ニューヨークのブロンクスでパーティーを開いたDJクール・ハークは、ジャマイカ出身だ。彼は故郷のサウンドシステムの文化——巨大なスピーカー、マイクで煽る「トースティング」——をブロンクスに持ち込んだ。ヒップホップ全史の1970sの章にも書いたとおり、ラップの祖先のひとつはレゲエのDJトークである(→ ヒップホップ全史 1970s)。
岩手の話もしておこう。サウンドシステムという文化は、いま盛岡の夜でも生きている。くわしくはマガジン「サウンドシステムという文化」にまとめた。

ロンドンの低音——移民が持ち込んだスピーカー
ブリクストンからバーミンガムへ。カリブ海の音楽が、英国の若者文化を作り変えた。
1948年以降、カリブ海から多くの移民が英国に渡った(ウィンドラッシュ世代)。彼らはロンドンのブリクストン、バーミンガムのハンズワースなどに住み、故郷の音楽を持ち込んだ。サウンドシステムの文化も、そのまま英国に根づいた。
1960年代には、スカが英国のモッズ層に支持され、ブルー・ビート・レコードなどから国内盤も出た。1970年代末には2トーン(ザ・スペシャルズ、マッドネス、ザ・セレクターら)が白人と黒人が混ざったバンドとしてスカを再燃させた。パンクもレゲエから影響を受けた。ザ・クラッシュは「Police & Thieves」をカバーし、ポリスは「Roxanne」(1978)にレゲエのリズムを採り入れた。
UK発の独自ジャンルもある。ラヴァーズ・ロック(1970年代、ロンドンで生まれた甘いレゲエ。ジャネット・ケイ「Silly Games」(1979)がその代表)、UKダブ、ジャングル/ドラムンベース、ダブステップ、UKガラージ。ロンドンのクラブの低音の多くは、サウンドシステムの血を引いている。毎年8月に開かれるノッティング・ヒル・カーニバルは、カリブ系コミュニティの祭りで、いまも巨大なサウンドシステムが通りを占拠する。


レゲエは、世界のあちこちで鳴っている
アフリカの解放から、ラテンのレゲトンまで。ひとつのリズムが各地で別の名前を持った。
アフリカでは、ボブ・マーリーが1980年にジンバブエ独立記念式典で演奏し、「解放の音」として受け入れられた。ルーシー・デューブ(南アフリカ)、アルファ・ブロンディ(コートジボワール)、ティケン・ジャー・ファコリー(コートジボワール)らが、それぞれの言葉でレゲエを歌った。
中南米では、パナマのスペイン語レゲエがプエルトリコに渡り、ダンスホールとヒップホップが混ざってレゲトンが生まれた。ダディ・ヤンキーの「Gasolina」(2004)、バッド・バニー、J・バルヴィンらは、その流れの延長にいる。ベースにあるのは、前に書いた「ディム・ボウ」のリズム。
ヨーロッパではドイツ、フランス、イタリアなどでジャマイカ人以外のレゲエ・アーティストが活躍する。アメリカでは、西海岸のスラィトリー・ストゥーピッド、レベリオン、ハワイの「ジョーイアン(Jawaiian)」など。ジャマイカ島の人口は約280万人。その小さな島の音が、世界じゅうで鳴っている。

レゲエとヒップホップは、血のつながった兄弟
クール・ハークからダミアン&ナズまで。ブロンクスとキングストンは、同じ街角の音だった。
ヒップホップとレゲエの縁は、ほとんど「兄弟」のようなものだ。DJクール・ハークの出身がジャマイカであること。サウンドシステムがブロンクスのブロック・パーティーのひな形になったこと。ダブのように曲を解体して組み替える発想が、ブレイクビーツやリミックスにつながったこと。
1980年代以降は、直接の交流が増えた。ブギ・ダウン・プロダクションズのKRS-Oneはダンスホールの語り口を取り入れ、1990年代にはスーパー・キャット、シャバ・ランクス、ビーニ・マンがラップ側のプロデューサーと組んだ。ノトーリアスB.I.G.はスーパー・キャットの「Dolly My Baby」リミックス(1993)に参加している。フージーズは、ボブ・マーリーの「No Woman, No Cry」をカバー(1996)。2000年代にはショーン・ポールがポップ・ラップとの接点を広げ、ダミアン・マーリーはナズとの共作アルバム『Distant Relatives』(2010)を出した。
岩手のクラブでレゲエとヒップホップが同じ夜に並ぶのは、偶然ではない。二つは同じ祖先を持っている。

日本のレゲエ——ダブからサウンドクラッシュまで
ミュート・ビートから、世界一のサウンドまで。そして盛岡の夜へ。


日本のレゲエは、1970年代にはじまった輸入の音楽から、1980年代に独自のシーンへ育った。最初期のバンドとして知られるのが、こだま和文が率いるダブ・バンドミュート・ビート(MUTE BEAT)(1980年代前半に活動開始)。静かな空間とトランペットの音色を軸にした日本独自のダブを作り、後の世代に絶大な影響を残した。こだま和文は現在もソロで活動を続けている。
1985年には東京スカパラダイスオーケストラが結成され、スカを日本の大衆音楽として根づかせた。1990年代にはジャパニーズ・レゲエがメジャーなシーンとして成立し、ランキン・タクシー(日本語レゲエの先駆者のひとり)、ドライ&ヘビーなど、ジャマイカ現地のサウンドを熱心に追うアーティストが現れる。
サウンドシステムの側では、神奈川県相模原市を拠点とするマイティ・クラウン(MIGHTY CROWN)が、1999年にニューヨークで開かれた「ワールド・クラッシュ」を制し、日本のサウンドが世界の舞台で勝てることを証明した。以後、ジャパニーズ・サウンドシステムの層はぐっと厚くなった。毎年開かれる横浜レゲエ祭などのフェスは、日本全国のレゲエ・ファンが集まる場になっている。
地方都市のシーンも、強い。盛岡にも、レゲエのパーティーやサウンドシステムの夜が根づいている。気になる人は、今月のイベント一覧から「REGGAE」をのぞいてみてほしい。



聞こえてくる言葉を、少しだけ解説
- リディム Riddim
- ジャマイカ英語で「リズム」。ひとつのバックトラックのこと。複数の歌手・DJがこの上で別々の曲を録音する。
- ヴァージョン Version
- ボーカル抜きの別バージョン。ダブの前身。
- ダブ Dub
- ミキサーとエフェクトで曲を解体・再構築する手法、またはその作品。
- サウンドシステム Sound System
- 巨大スピーカーとレコードで構成する移動式のダンス装置。人と機材の総称でもある。
- セレクター Selector
- 曲を選んでかける人(DJと呼ぶことも)。
- トースティング Toasting
- レコードの上でマイクを握って語る/歌う技法。ラップの祖先のひとつ。
- ダブプレート Dubplate
- 特注の1枚だけのアセテート盤。サウンドクラッシュの切り札。
- ワンドロップ One Drop
- 3拍目にバスドラムとスネア(リムショット)が同時に鳴る、レゲエ特有のドラム・パターン。
- スカンク Skank
- 裏拍で刻むギター/ピアノのカッティング。
- ガンジャ Ganja
- 大麻。ラスタでは儀式に使われるが、日本では所持・使用は違法。
- ジャー Jah
- ラスタファリにおける神の名。
- バビロン Babylon
- 抑圧的な西洋社会、あるいは警察や権力そのもの。
- ザイオン Zion
- 理想の地。エチオピアなどアフリカを指す。
- アイリー Irie
- 「最高だ」「いい感じ」を意味するジャマイカ英語。
- パトワ Patois
- ジャマイカの言語。英語を基盤に西アフリカの言語が混ざったクレオール。
- ヤード Yard
- 故郷、ジャマイカ。
- ラヴァーズ・ロック Lovers Rock
- 甘いラブソングを中心にした英国発のレゲエ。
- ダンスホール Dancehall
- 1980年代以降の、ダンス会場の音楽として発展したジャマイカの現代的なスタイル。
Here
どこから聴く? 年代順・必聴アルバム
全部は聴けない。だから、ここまでの話に出てきた作品から20枚を選んだ。
- 1964The Skatalites
Ska Authentic
スカの教科書。ホーン・セクションの粋と、ジャズの余韻。
▶ YouTubeで探す - 1969Desmond Dekker & The Aces
Israelites
ジャマイカ産のレゲエが世界1位になった。
▶ YouTubeで探す - 1972Jimmy Cliff(サントラ)
The Harder They Come
映画と音楽が一体になった入口。
▶ YouTubeで探す - 1973Bob Marley & The Wailers
Catch a Fire
世界に出た最初のウェイラーズ。
▶ YouTubeで探す - 1975Bob Marley & The Wailers
Live!
「No Woman, No Cry」の決定版。ロンドン・ライシアム公演。
▶ YouTubeで探す - 1975Burning Spear
Marcus Garvey
ルーツ・レゲエの深さを知る一枚。
▶ YouTubeで探す - 1976Bunny Wailer
Blackheart Man
ウェイラーズ出身。静かで神秘的。
▶ YouTubeで探す - 1976Augustus Pablo
King Tubbys Meets Rockers Uptown
ダブの最高傑作として挙がる名盤。
▶ YouTubeで探す - 1977Bob Marley & The Wailers
Exodus
ルーツとポップが最も幸福に出会った瞬間。
▶ YouTubeで探す - 1977Culture
Two Sevens Clash
不吉と祈りの傑作。
▶ YouTubeで探す - 1982Gregory Isaacs
Night Nurse
ラヴァーズの王道。夜の定番。
▶ YouTubeで探す - 1984Bob Marley & The Wailers
Legend
最初の一枚としてはこれ。世界で最も売れたレゲエ盤。
▶ YouTubeで探す - 1985Wayne Smith
Under Mi Sleng Teng
デジタル時代の幕開け。
▶ YouTubeで探す - 1995Buju Banton
’Til Shiloh
ダンスホールとルーツの接点。
▶ YouTubeで探す - 1996Fugees
The Score
「No Woman, No Cry」のカバーを収録。ヒップホップとレゲエの合流点。
▶ YouTubeで探す - 2002Sean Paul
Dutty Rock
世界ポップの中のダンスホール。
▶ YouTubeで探す - 2005Damian Marley
Welcome to Jamrock
ルーツの血と、ヒップホップの言葉。
▶ YouTubeで探す - 2010Nas & Damian Marley
Distant Relatives
ヒップホップとレゲエ、兄弟の共作。
▶ YouTubeで探す - 2017Chronixx
Chronology
リバイバル世代の代表作。
▶ YouTubeで探す - 2019Koffee
Rapture
新世代のグラミー受賞EP。
▶ YouTubeで探す