DJ Kool Herc、ヒップホップが生まれた夜

📷 DJ Kool Herc / 撮影: Bigtimepeace (Wikimedia Commons user) / Public domain
今、クラブでDJがレコードをつなぎ、フロアがドッと沸く。あの光景のいちばん古い原点のひとつが、1973年のニューヨークにあります。主役はDJ Kool Herc(クール・ハーク)。ヒップホップの「生みの親」と呼ばれる人物です。
ヒップホップと聞くと、ラップやスターの顔が思い浮かぶかもしれません。でも最初に生まれたのは歌ではなく、「レコードをかけるやり方」でした。その発明が、いまの音楽の景色を作ったのです。連載の第1回は、すべての始まりの夜から話をはじめます。
ジャマイカから来た少年
Kool Hercの本名はクライヴ・キャンベル。1955年、ジャマイカのキングストンで生まれました。1967年ごろ、家族とともにニューヨークのブロンクス地区へ移り住みます。
ジャマイカには、大きなスピーカーを街に持ち出して音楽を鳴らす「サウンドシステム」という文化があります。巨大な音の壁でダンスを盛り上げるやり方です。Hercはその空気を知っていて、ブロンクスでも同じように、迫力のある音でパーティーを開きたいと考えました。
このサイトを読んでいる人なら、レゲエの文化がヒップホップのルーツにつながっていることに「へえ」と思うかもしれません。ジャマイカの街の音と、ニューヨークの街の音が、ここで出会ったのです。
1973年8月、セジウィック・アベニューの夜
ヒップホップの誕生日としてよく語られるのが、1973年8月11日です。Hercの妹シンディが、新学期の前に服を買うお金を作ろうと、住んでいた集合住宅の娯楽室でパーティーを開きました。場所はブロンクスのセジウィック・アベニュー1520番地。この建物は今では「ヒップホップ発祥の地」として知られています。

この夜、DJを務めたのが兄のHercでした。大きなスピーカーを持ち込み、集まった若者たちのために次々とレコードをかけます。入場料はとても安く、近所の若者が気軽に遊びに来られるパーティーでした。
当時のブロンクスは、仕事も娯楽も少なく、街が荒れて見られがちな場所でした。そんな中で、友だちと踊れる夜は、若者にとって大切な居場所だったはずです。パーティーは評判になり、Hercはその後も公園や集会所で音を鳴らしていきます。
Hercの音が人気を集めたのには、機材の力もありました。彼は大音量で鳴らせるスピーカーを使い、低音がお腹に響くような迫力でパーティーを盛り上げたと語られています。今でもクラブで「低音で体が揺れる」と感じるのは、同じ楽しさの延長線上にあります。
ブレイクビーツという発明
Hercが見つけた大きな発見は、踊る人がいちばん盛り上がる場所にありました。ファンクやソウルの曲には、歌や楽器が少し引いて、ドラムとベースが主役になる短い部分があります。この部分を「ブレイク」と呼びます。ダンサーたちは、そこで最も激しく踊っていました。
Hercは気づきます。「それなら、そこだけを長く続ければいい」。同じレコードを2枚用意し、片方のブレイクが終わりそうになったら、もう片方の同じ部分に切り替える。これを繰り返せば、盛り上がりの瞬間が何分でも続きます。この方法は「メリーゴーラウンド」と呼ばれました。
曲を丸ごと聴かせるのではなく、いちばん熱い数秒をつなぎ続ける。今のクラブで当たり前のように行われているDJの技の原型です。ドラムだけでフロアが爆発する瞬間を、あなたもきっと体験したことがあるでしょう。あれの元祖がここにあります。
こうして生まれたブレイクの上で踊る若者たちは「ビー・ボーイ」「ビー・ガール」と呼ばれ、それがブレイクダンスの文化につながっていきました。さらにDJのそばでマイクを握り、場を盛り上げる人が現れます。そのマイクの声が育って、やがてラップになりました。
最初のパーティーが開かれた時代のブロンクスには、まだ「ヒップホップ」という名前すらありませんでした。参加していた若者たちも、自分たちが歴史の始まりにいるとは思っていなかったでしょう。目の前のフロアを盛り上げることに夢中だった、そのまっすぐさが、あとから振り返ると新しい音楽のかたちになっていた。この点が、私はいちばん面白いところだと思います。
Hercのパーティーでは、盛り上げ役が声で観客に呼びかけたり、DJの名前を叫んだりしました。最初は「盛り上げるひとこと」だった声かけが、リズムに乗せた言葉遊びへ変わっていきます。ここからラップが育つわけです。
ここで大事なのは、ヒップホップが最初から「CDを売る産業」だったわけではないことです。レコードもスピーカーも自分たちで用意し、街の公園で音を鳴らす。音楽、ダンス、グラフィティ(壁や電車に描く絵)といった表現が、同じ街の中で一緒に育ちました。
のちにこの文化は、世界中の都市へ広がっていきます。Hercのパーティーから50年以上たった今、日本の盛岡のクラブでも、同じ精神で音が鳴っているわけです。
Hercのやり方は、すぐに近所の若者たちにも広がりました。のちに登場するGrandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)やAfrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)といった重要な人物も、ブロンクスでこうしたパーティー文化の中から育っていきます。一人の天才が突然すべてを変えたというより、街の若者たちが互いに刺激しあって作り上げた文化だった、と考えるとイメージしやすいでしょう。次回は、そのフラッシュの話です。DJの技をさらに磨き上げた人物で、Hercとはまた違った角度から、ヒップホップの土台を作りました。
盛岡でクラブ通いをしていると、DJが同じフレーズを繰り返してフロアを引っ張る場面に出会うことがあります。その長さは、実はHercが「踊る人が喜ぶ場所を伸ばす」と決めた日から続く、とても古い約束事なのです。技術は進み、機材はパソコンになっても、フロアを見て選ぶという姿勢は同じです。
まとめ
DJ Kool Hercは、ヒット曲を残したスターというよりも、「音楽のやり方そのもの」を発明した人でした。2枚のレコードでいちばん熱い部分をつなぐという発想が、DJプレイの土台になり、ラップやダンスの文化を呼び込みました。
ここから先、この連載ではいろいろなアーティストが登場します。誰の話を読んでも、元をたどればあの夜の集合住宅にたどり着く。そう考えると、クラブで流れる1曲1曲が、少しだけ特別に聴こえてきませんか。
次にフロアでドラムの部分だけが長く続いたら、「これがHercが見つけた場所だな」と思い出してみてください。ほんの少し、夜が楽しくなるはずです。
まずはこの曲から
Hercは自分名義のレコードをたくさん出した人ではないので、彼が愛した曲と、その流れを汲む曲を聴くのがおすすめです。
- Incredible Bongo Band「Apache」:ブレイクの定番として、ヒップホップの現場で何度も使われてきたインストの名曲
- James Brown「Funky Drummer」:ドラムが主役になる部分が、のちのヒップホップで大量に使われた1曲
- Babe Ruth「The Mexican」:Hercが好んだと語られるブレイクを含む曲。ドラムとベースの勢いを味わえます